デボーションの第三ステップ 適用 - 生活への適用の方法

投稿者: Administrator on .

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生活への適用の方法

1.    適用のための祈り

静聴によって私たちが教えを受けるのは、神さまが、私の人生のどこかの部分に、語っておられるからです。そこで、神さまが
自分の人生において、適用すべきところを示して下さるよう祈ることが大切です。  

ここで示唆的なのは、ルカ24章のエマオ途上の物語です。

悲しみで暗い顔をした二人の弟子が、エマオの村に向かって歩きながら、キリストの十字架と、女たちはキリストがよみがえられたと報告したことについて話し合っていました。そこに主イエスが近づくのですが、彼らの目がさえぎられていて、主イエスだと気がつきません。

「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く、預言者たちの言ったことをすべて信じられない者たち」と二人に向かって主イエスは嘆きました。でも、主 イエスは彼らに聖書をもとにして、キリストが十字架につくことと復活することを解き明かされました。聖書の理解が与えられ、二人の弟子たちは心が燃えまし た。でも、彼らの目はまだ開かれておらず、主イエスが語っておられることに気がつきません。 エマオの村に近づいたとき、イエスはなおも先に行こうとされたので、二人は自分の村に来るよう、イエスに無理に頼み込みました。そして彼らの家で、夕食を したとき、二人の目が開け、その方がイエスだと弟子たちは気がつきました。その途端、イエスの姿が消えてしまいましたが、二人は、急いでエルサレムに戻って「主は復活された、主に会った」と証言しました。

彼らは聖書の語っていることがわかって心が燃えました。心の感動は適用して行いとならなければなりません。彼らは強いてイエスを自分たちの村に連れていきました。そしてイエスと食事をしているときに目が開けます。適用するとき、私たちはしつこく、祈ることが大切です。「開いて下さい、心 の目を。開いて下さい、心の耳を」。目が開けてイエスだとわかった弟子たちは、自分たちの為すべきことが即座に分かり、彼らは早速行動しました。エルサレ ムに戻って、イエスの復活を証言したのです。

心の目が開けると、適用がわかるのです。私たちの生活のどの分野に適用するのか、神さまに教えていただくために、祈ることがとっても大切となります。 適用が難しいとおっしゃる人は少なくないのですが、大切なのは、祈ることです。神との交わりを深め、目を開かせ、適用がわかるように祈り求めることです。

2.    適用の原則  適用を考えるとき、3P2Cの原則を適用すると便利です。

o    適用は、必ず自分に適用すること(Personal)

他の人に適用せず、自分に適用します。

o    適用は、実際的具体的であること(Practical)

いつ、どこで、だれに、何をするのか、具体的実際的に適用します。

o    適用は、可能なことから(Possible)

可能なことから、時間的に現在必要なことから適用します。

o    適用は、継続的(Continuous)

段階を踏んで、適用が明らかになることもあります。適用が明確になるよう祈り続けることが大切となります。デボーションをする中で明らかになっていきます。

o    適用は、あまり飛躍しない(Common)

神さまは非常識なお方ではないので、とんでもない適用を願ってはおられません。

3.    応答の祈り

多くの場合、私たちは、私たちの祈りが聞かれるかどうか、ということに大きな関心を持っています。祈りの答えがなければ、徹夜祈祷をしたり、断食をした り、泣いたり、神さまを恨んだりすることもあります。しかし、その反対に、神さまが私たちに対して、お願いし、命令されたことに対しては、私たちは答えな いで、沈黙を守ろうとします。 (ユン・チョンハ『黙想の時間』より)

デボーションの中で、神さまからのお願い(勧め)とか命令、約束、忠告、また祝福をいただいたら、それに対して今度は、私たちがどう するかを神さまに答える番です。悟った命令や、警告に対して、「従います」または「注意します」という答えと告白を、神さまは待っておられるのです。

o    感謝と賛美の祈り

神さまの祝福、約束、慰めなどに対しては、感謝と賛美の祈りをささげて、神さまに答えるべきです。

o    悔い改めの祈り

戒めと警告に対して、自分の罪が具体的に示されたのなら、悔い改めの祈りをささげます。

o    対話式の祈り

適用がわからないとき、さらに祈ります。神さまに対話するように語りかけ、神さまに聞きます。たとえば、「神さま、聖書 からこのように勧めを受けました。私の生活のどの分野に適用されるのでしょうか。教えて下さい。・・・家族に対して適用されるのでしょうか。・・・職場の 人に対してでしょうか。・・・」。・・・の部分は沈黙して神さまの語りかけを待ちます。その時、具体的にあの人この人と、人を思い浮かべます。

o    従順の祈り

神さまのみ声に対して、私たちの側の応答は、積極的、肯定的でなければなりません。「神さま・・・・させて下さい」ではなく、「神さま、・・・・します」と応答の祈りをするのです。「・・させて下さい」、これは神さまへの命令になり、私たちの応答ではありません。

o    賛美せよ

ここまで来ると、私たちは聖霊に満たされてきます。そこで神さまを賛美します。デボーションの祝福の時です。

 

(このガイドは、http://hola.la.coocan.jp/devotion/dev_index.htmlの牧師堀江明夫による「御言葉に生かされる恵み」からのもので、許可を得て転載したものです。)

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良くある質問と答え

  • 人に不快な思いを与えるようなものでさえなければ、礼拝に出席する服装の決まりは基本的にありません。ただ、礼拝に集まる信者たちは、「神様のみ前に出 る」という思いをもって集っています。礼拝にどういう服を着ていくか、ということは、「人の前でお洒落をする」ということではなくて、「神様のみ前にどの ような思いで出るか」ということなのです。
  • 一般に教会とは建物を指していることが多いようです。「教会に行ったことがある」「教会で結婚式を挙げる」と言う時、教会の建物を指して言っているようで す。 中世の教会では神の威光を表現するために、より高い教会堂、より大きな教会堂を建設しました。この長い歴史の中で、教会イコール教会堂(建物)というよう に変わっていったのです。元々、初期教会が存在した頃、教会堂のようなものはありませんでした。 クリスチャンは個人の家で集まっていたのです。 長い歴史の中で、本来の教会の性質も変わっていきました。 キリスト教の中には様々な宗派があり、各々の宗派がそれぞれの伝統を持っています。 そして、それぞれの教会が各々の伝統に基づいて違ったことを教えています。このような事は神が計画したことではありません。 教会はある宗教的なリーダーによって築かれた、という印象を持っている方もいると思いますが、本当の教会の姿は違います。 イエスは次の様に言われました。

    16:18 ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。16:19 わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天に おいても解かれています。 (マタイの福音書16:18-19)

    聖書が教えている教会とは、イエスが建てたものです。教会の起源は神 自身にあるのです。宗教的なリーダーが建てたものでも、ある特定の人間が建てたものではありません。では教会がどのように始まり、いったいどんなものなの かを共に考えてみ見ましょう。イエスが十字架に架けられ死んで3ヶ日後に復活され、その時にイエスは弟子たちに言いました。

    24:45 そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、24:46 こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり 24:47 その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。24:48 あなたがたは、これらのことの証人です。24:49 さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさ い。(ルカの福音書24:45-49)
  • Q. クリスチャンになると死が怖くない? ほんと?

    A. 恐れや怖いという感情は、人間 の肉体に生まれついた本能的なものですから、クリスチャンになったからといって、無くなるわけではありません。しかし、キリストの十字架のあがないによっ て、永遠の滅びから罪のゆるしをいただいて、天国に行く確信を持つと、死の恐れに勝利できるのです。それだけではなく、天国で神との素晴らしい交わりを持 ち、先に天国に帰った家族や友とも再会できるという希望を持つことが出来ます。キリストを信じる時に、死の恐怖から解放され、希望と自由と平安を得ること が出来るのです。
  • Q. 三位一体とは何ですか。キリスト教は唯一の神ではないのですか。

    A. 今も教会の「神認識」を根幹をなす、最も重要な教理です。 万物の造り主である父なる神と、子なる神であるわたしたちの救い主イエス・キリスト、そして今も共にいる慰め主なる聖霊はそれぞれ固有の人格(ペルソナ) であり、共に交わり、一つとなっている、ということです。これは神を分析した結果 、判ったものではなく、聖霊と聖書に導かれた教会が信仰の告白として言い表したものであり、わたしたちはその信仰を受け継いでいます。