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ゴスペルハウスが提供している「今日もバイブルしましょう!」サイトのシステム全体のアクセス数が、8,000,000を超えました。

このサイトの目的は、毎日1章ずつ聖書をともに読むことをお勧めし、そこに互いに投稿しあうことを目指しています。

「今日もバイブルしましょう!」のサイトは、http://www.bible-today.com/ です。

電道(E-vangelism)

巧妙に ― 蛇のように聡く…

投稿者: Administrator on . Posted in 電道 E-vangelism

星を無効星を無効星を無効星を無効星を無効
 

2.1 中立的、けれども全く戦闘的でなくはない

ウェブページのタイトル、見出し、インデックスなどに、説教的な見出し、タイトル、リンク、画像は避けてください。いかにも、キリスト教といった組織名(例え ば、"キリストの救いミニストリー"、"第一バプテスト教会")などをページの頭につけることも避けてください。もし、あなたが組織名をどうしても載せた い場合、中立的な名称を選んで付けてください。キリスト教的な絵(聖書、十字架、鳩、ステンドグラス他)も避けてください。使いたい気持ちは解りますが、 未信者にとって、居心地が悪くなるようなものは避けるべきです。実際、求めている人たちには、価値のあるものですが、私たちは限られたキリスト教に興味の ある人たちよりも、もっと広範囲の人たち(まったくキリスト教について知らない人たち)に届いていきたいのです。ですから、マウスをクリックすることで、 簡単に彼らがあなたのウェブページから出て行ってしまうようなことは極力避けたいのです。

キリスト教的な ウェブページが増えるほど、伝えたい人たち(キリストや真実をまったくしらない人たち)に伝わりにくくなるのです。第8章で定義した、一般的な興味に対す るもの、一般的な事に対するクリスチャンの物の見方、証(あかし)のページがタイトル、見出し、絵、言葉遣いなどで、いかにもキリスト教的なものを使わな いように呼びかけたいのです。新聞のように、すべてが初めのタイトルや見出しで解ってしまうようなものは避けて欲しいのです。

伝道ウェブページでは、クリスチャンのみが興味をもつような問題(聖書の訳の違い、教派による教義の違いなど)を取り扱うことは避けてください。そのような ことは、彼らがクリスチャンになってからで十分です。もちろん、クリスチャン向けのウェブページを通してキリストに出会った例もあります。けれども、それ に該当しない人たちの方が遥かに多いのです。ですから、伝道ウェブページでは、未信者向けにデザインしたものを作成してください。

2.2 どこで未信者と交わることが出来るか

未信者たちのいるところへ出て行くことが必要です。これが、彼らに伝道する秘訣です。私たちの伝道ウェブページでは、どんな人たちがどんなウェブページに興味があるのかを研究し、彼らが使うような言葉を使用(または引用)しています。

"ユダヤ人には、ユダヤ人のようになりました。それは、ユダヤ人を獲得するためです。律法の下にいる人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下に いる者のようになりました。それは、律法の下にいる人々を獲得するためです。律法を持たない人々には、―私は神の律法の外にある者ではなく、キリストの律 法を守る者ですが―律法の下にいる者のようになりました。それは、律法を持たない人々を獲得するためです。弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を 獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、なんとかして、幾人かでも救うためです。わたしはすべてのことを福音のためにしてい ます。それは、わたしも福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。" 第一コリント9:20~23

漫画の影響力を利用しましょう。漫画 などのメディアを使った伝道に関するトレーニング・コースもアメリカではすでに始まっています。また、日本では、子供に限らず、大人にも漫画は人気があり ます。1年間に20億もの漫画が売れているのです。ロシアでは、190の教会が過去5年間にSuperBook(TVの漫画シリーズ)の影響によってでき ました。実に、100万人がそのテレビ番組に対して手紙を出したのです。もし、日本でそんな漫画シリーズが放映されたらどうでしょうか?漫画の影響力は軽 視できません。インターネット上の漫画(動画、音声入り)も作れるのです。イギリスで作られたPrivate Eye を参照して見て下さい。とてもよくできています(世俗的なものです)。CartoonworksのRon Weelerは、漫画のユーモアを通すと、人々は警戒を解除し、福音的なメッセージを受け入れやすいと語っています。Cartoonworksでは、クリ スチャン的な漫画、グラフィックスを無料で製作しています。(有料の3Dクリップ・アートも売っています。)また、インターネット上での福音的なメッセー ジを含んだ漫画も提供しています。

参考ウェブページ(英語)

ROX35 Media 漫画の資料

数年前に、有名なクリスチャンのラジオ局が賛美歌、祈り、説教をもとにしたラジオ番組製作しました。けれども、クリスチャンやクリスチャン的な環境で育った 人にしか聞いてもらえないことに気づき、教会関係者以外にも聞いてもらえるような番組に作り変えました。その直後に、視聴者からの手紙が、"対して問題も ないような教会に通っているいい人"からの手紙から、"大変な問題を抱えている、切羽詰った人" からの手紙に取って代わるようになりました。開拓伝道者C.T.Studdは、私たちクリスチャンが、福音を聞く必要のある人のところに出て行くべきだと いうことを、このような詩で表現しています。

"誰かは教会の音楽や鐘を聴きながら、生活することを望むかもしれないけど、 わたしは、地獄の庭先で人々をそこから救い出す生活するほうを望む。"

この世に存在する宗教に対して雑誌を通したミニストリーがあります。彼らがミニストリーを開始する前に、時間とお金を費やして市場を研究し、その宗教の指導 者たちの教えや興味を探りました。そして、その教えや興味を元にして雑誌を編集し、デザインもその地域の世俗的な雑誌に合わせました。

イギリスでは、Railway Missionが鉄道会社職員向けの新聞を提供しています。表向きは、鉄道に関するものですが、中身は伝道的なものです。このことを応用して、主の導きに まかせて、あなたの興味あることを対象にしたウェブページ作成を試みてはいかがでしょうか?

日本の教会では、よくバザーをやり、難なく近所の人との交流を図っています。市川にある教会では、1960年代に亡くなった有名なカーレーサーの車の遺族が礼拝に参加 し、昼食を共にした人達に限り、日曜日の午後にその車を見せることを手掛けています。そのカーレーサーのファンクラブが年に一度その教会で集まるそうで す。その会は、故人の母親が、祈り、証をする事によって始まるそうです。ファンクラブの何人かはそのことを通して信仰を持つようになりました。

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良くある質問と答え

  • 子育てQ. 最近、子どもと過ごす時間があまりとれないのですが、一緒にいられる時は大事にしたいと思っています。子どもと過ごす時間の質が、長さよりも大事だという意見に、先生は同意なさいますか。

    A.  私には、その考えの論法があやまりだと思えるのです。
    なぜ、時間の質と、長さのどちらかを選ばなければいけないのでしょうか。私たちの生活の他の場面で、そういう選択を迫られることはありません。どうして、子どもと過ごす時間についてのみ、そのように考えるのでしょう。

    例 えばの話です。あなたが、町で有数のレストランで食事をするのを楽しみにしているとします。ウェイターが持ってきたメニューを見て、あなたは、一番高級な ステーキを注文しました。ところが、出てきたのは、お皿の真ん中に、三センチ四方の小さなお肉が乗っているだけです。あなたが苦情を言うと、ウェイターは 答えます。
    「確かに小さいことは小さいですが、最高品質のビーフでございます。これ以上の味はどこでもお目にかかれないと思います。なにしろ、大 事なのは量ではなく、質でございますから。」当然ながら、あなたは憤慨します。なぜなら、食事はもちろん、多くのものは質、量ともに大事だからです。

    子どもと過ごす時間についても、同じです。子どもたちは、親と過ごす時間が必要であり、私たちは最善のものを彼らに与えるべきです。私には、「量か質か」という議論が、子どもたちにそのどちらも与えない言い訳に使われているような気がしてならないのです。


    ドクター ジェームス・ドブソンのQ&Aから

  • テレビ見る子供たちQ うちの子が一緒に遊ぶ、近所のお子さんたちは、あきれるようなテレビ番組を見ています。親たちが、暴力やセックスを子どもたちに見せていることが信じられません。こういう番組を見ていると、後々どのような影響が出るのでしょうか。

    A  あまりにも多くの親たちが、テレビを子どもの好き放題に見せていることは、悲しく、また理解しがたいことです
    「何を見せてもいいじゃないか。」と言う方々に、私はこう聞きたいと思います。
    見ず知らずの人が、あなたの家を訪ねてきて、「お疲れのようですね。一日二日、お子さんたちの面倒を見てあげましょうか。」と言ったとします。「やあ、ありがたい、ぜひ、頼みます」と答える人は、まずいないでしょう。
    これは、「子どものテレビを考える会」代表のペギー・チャレン女史が使った例です。彼女の言いたいことは明らかです。

    子 どもたちをテレビの前に座らせる時、私たちは彼らを見ず知らずの他人の手に任せているのです。子どもに自由にテレビを見せることによる危険性は、ますます 大きくなりつつあります。テレビでの暴力が、後になってしばしば子どもや十代の若者による暴力となって現われることは、数多く実証されてきています。

    中でも、レナード・D・アロン博士の研究は、大変に説得力のあるものです。
    複数の子どもたちを、まず8歳、次に19歳、最後に30歳の時に調査しました。国は、米国、豪州、フィンランド、イスラエル、ポーランドにまたがりました。結果は、どこでも同じでした。
    8歳の時に暴力番組をひんぱんに見ていた子ども程、30歳の時に犯罪者となっていた確率が高く、飲酒時の行動は節度を欠いていました。

    親は、子どもたちのテレビを見る時間と番組の内容を規制しなくてはいけません。さもないと、恐ろしい結果になるかもしれません。


    FROM ドクター ジェームス・ドブソンのQ&A

  • Q. 家内安全や商売繁盛を願う宗教はご利益宗教なのであって、キリスト教はそういうものとは違う、と聞いたことがあります。それでは、自分の幸せを願うことはいけないことなのでしょうか。(四十代、主婦)

    A.  家庭を持ち、大切な子供を育てる責任を持つ親として、健康や経済的安定を願うことは、自然なことであり、当然とも言えます。おそらく、自分の幸せを願わない人などいないとすら言えます。キリスト教はこれらを否定するのでしょうか。

    ◇ キリスト教はご利益宗教?

    キリスト教は聖書のメッセージを土台としていますので、聖書が何といっているかが答えとなります。ところがその聖書は、一方では「自分の命を救おうと思う 者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう」(マタイ 十六・二十五)とあり、自己否定の道が示されております。しかし他方では「祈のとき、信じて求めるものは、みな与えられるであろう」(マタイ二十一・二十 二)ともあります。
    これらのみ言葉は矛盾するように見えますが、どちらも最終的には幸せが与えられるという点で、重なるところがあります。聖書 はある意味で本当の幸せがどこにあるかを伝える書物です。ある敬虔な牧師は、「キリスト教は、究極的には真の意味でのご利益宗教だ」と言いましたが、わた しも同感です。しかし、一般的に考えられているご利益宗教とは、多くの点で異なります。

    ◇ ご利益信仰と人格的信仰

    信 仰者の在り方という側面から比較してみましょう。いわゆるご利益宗教においては、世界の中心に自分がいます。自分にとっての利益を願い、良いと思えない 病、貧困、災害等を避けることを願います。ご利益があるならどの神でも構いません。しかし、聖書は自分を中心とした信仰の在り方そのものに疑問を投げか け、さらに警鐘を鳴らしています。ご利益信仰に潜むこの自己中心性そのものが、実は大きな不幸の第一歩なのです。
    それに対して聖書で伝えられて いる信仰の在り方はよく「人格的信仰」と呼ばれます。それは自分ではなく神を中心としていくことであり、神との人格的信頼関係を人生の軸としていくことな のです。病気や貧困などから守られることも祈ると同時に、そういった苦難を神からの訓練として、受けとめることを学びます。神中心とは自分の利益のために 神を利用するという生き方との決別をいみしています。

    ◇ 真の幸せはどこに?

    幸せを求めることは人間として自然なこと です。しかし、何が本当の幸せなのか、また人生から幸せを奪うものが何か知らないゆえ、多くの人は表面的には豊かになった社会のなかでもがいているので す。ヒルティーは「私は病気で幸福な人をたくさん見てきた。私は貧しくて幸福な人もたくさん見てきた。しかし心が罪で腐っていて幸福な人には会ったことが ない」と言いました。聖書は、罪こそ幸せを奪うものであると教えています。罪とは、神ではなく自分を中心として生きて行くその在り方(Being) を指し、罪の行ない (Doing) はその結果なのです。すなわち、罪を犯すから罪人なのではなく、罪人だから罪を犯すのです。ご利益信仰そのものの内に潜む罪こそ幸せを奪うものなのです。

    何が幸せなのかは人間には分かりません。これが私の幸せだと思ってつかんだとしてもその瞬間に空しく消えていきます。真の幸せは追い求めて掴むものではなく、神の前に罪を悔い改めへり下る時、神がそっと与えて下さるものなのです。


    OMSウエストロサンゼルスホーリネス教会のQ&Aから
  • 一般に教会とは建物を指していることが多いようです。「教会に行ったことがある」「教会で結婚式を挙げる」と言う時、教会の建物を指して言っているようで す。 中世の教会では神の威光を表現するために、より高い教会堂、より大きな教会堂を建設しました。この長い歴史の中で、教会イコール教会堂(建物)というよう に変わっていったのです。元々、初期教会が存在した頃、教会堂のようなものはありませんでした。 クリスチャンは個人の家で集まっていたのです。 長い歴史の中で、本来の教会の性質も変わっていきました。 キリスト教の中には様々な宗派があり、各々の宗派がそれぞれの伝統を持っています。 そして、それぞれの教会が各々の伝統に基づいて違ったことを教えています。このような事は神が計画したことではありません。 教会はある宗教的なリーダーによって築かれた、という印象を持っている方もいると思いますが、本当の教会の姿は違います。 イエスは次の様に言われました。

    16:18 ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。16:19 わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天に おいても解かれています。 (マタイの福音書16:18-19)

    聖書が教えている教会とは、イエスが建てたものです。教会の起源は神 自身にあるのです。宗教的なリーダーが建てたものでも、ある特定の人間が建てたものではありません。では教会がどのように始まり、いったいどんなものなの かを共に考えてみ見ましょう。イエスが十字架に架けられ死んで3ヶ日後に復活され、その時にイエスは弟子たちに言いました。

    24:45 そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、24:46 こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり 24:47 その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。24:48 あなたがたは、これらのことの証人です。24:49 さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさ い。(ルカの福音書24:45-49)