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なぜパウロは天幕を作ったのか?Part 5

投稿者: Administrator on . Posted in テントメーカー Tentmaker

星を無効星を無効星を無効星を無効星を無効
 

パウロはどのくらい働いたか?

第一伝道旅行において、第1コリント9:6から、パウロとバルナバはキプロスからガラテヤへの道においてすでにセルフサポートをしていたように思われます。また、 パウロが現在時制を使っていることから、彼らのチームが別れてからもセルフサポートを続けていたことがわかります。

第二伝道旅行で、パウロはピリピに贈り 物を届に行きます。(第2コリント11,12章)彼の改宗者へのこれらの手紙によると、彼はテサロニケで働いていました。彼は「昼も夜も」働いていました。こ れは、朝早くと午後遅くのシフトということです。マケドニア地方では、今日でも同じような時間帯で仕事をしている人々がいます。労働者は朝まだ暗いうちに 仕事に行き、日中の暑い時間帯に3、4時間の休憩を取り、暗くなるまでもう一度働くのです。夕食は9時から深夜12時までの間に取ります。

使徒18章5節はよくパウロがテモテとシラスがお金を持ってピリピから帰って来るまでの間だけ働いていたというふうに解釈されます。しかしギリシャ語の聖書 には、彼がみことばを宣べ伝えるのに一生懸命だったとだけしか書かれていません。パウロが見つけたばかりのテントメーキングの仕事をすでに止めてしまった と解釈される事がしばしばあります。しかし聖書を調べてみると、同労者の到着後にも彼の活動は変わらなかったということが読み取れます。彼が自分の手で働 くことを止めたと信じる理由はどこにもないのです。彼は自分の手で働くこととミニストリーを融合させていたのです。

もしパウロが何日間、あるいは何週間で自分の仕事を止めてしまっていたとするなら、コリントでそのことは決して話題にはならなかったでしょう。しかしパウロ がエペソに行った後、ユダヤ教徒たちがコリントに来て、まさにこの話題についてパウロを非難しようとしたのです。彼らは、パウロがその手で働いたことは、 彼が本物の使徒でないので献金を受ける資格がないことを証明している、と言ったのです。

しかしもしパウロがコリントやほかの場所でほとんどの時間を働いて過ごしたのでないなら、彼に対する非難は根拠の無い物であり、彼の自分の仕事に対する熱心な弁護も意味の無い物になってしまいます。この食い違いのゆえに、私たちはコリントの新しい教会に対してかかれた彼の二つの手紙の中に、セルフサポート宣 教師の働きに関するパウロの価値ある見解を得ることができたのです。

第三伝道旅行で、エペソからパウロはこう書いています。「今にいたるまで、私たちは飢え、渇き、着るものもなく、虐待され、落ち着く場所もありません。また、 私たちは労苦して自分の手で働いています。」(第1コリント4:11,12)ユダヤ教徒たちはパウロはみすぼらしいものを着ているから彼は重要な人物ではな いといいました。パウロは上流階級の改宗者たちにとっていやな存在となったのでしょうか。

エペソの年長の改宗者たちに対してパウロが最後に残した言葉のなかに、彼はこう言っています。「私は、人の金銀や衣服をむさぼったことはありません。あなた がた自身が知っているとおり、この両手は、私の必要のためにも、私とともにいる人たちのためにも、働いてきました。このように労苦して弱い者を助けなけれ ばならないことを私は万事につけ、あなたがたに示してきたのです。」(使徒20:33-35)

パウロはよくない環境で育った背景を持つ「弱い」人たちが簡単に誘惑されて怠けた生活をして、クリスチャンたちの親切に甘えるようになるのを防ぐため、彼ら の証になるように、いえの教会の牧師たちに、パウロ自身がしたように、自分の必要のために働くように、そしてよい働きと証のモデルとなるようにと戒めまし た。(第1コリント6:10,11)パウロがイエス様の、受けるよりも与える方が幸いである」という言葉を引用したとき、牧師は貧しい人に与えるために働く べきであるといったのではありません。

施しは、無責任と依存を育てる結果になり、パウロはそれを直そうとしていました。それよりも、牧師がセルフサポートを続けるということは、不道徳で、偶像礼拝の、ものぐさな異邦人の住民への教会開拓の段階において、必要な犠牲多いモデリングだったのです。

ではどうやってパウロは彼の仕事と働きを融合させていたのでしょう。彼は職場での個人伝道に加えて、「家から家へ渡り歩いて」改宗者たちを教えていました。 つまり、彼は、多分夜には家の教会で教え、ツラノの講堂が使われていない12時から4時までの長い昼休みの間に、そこで教えていたのです。(F.F.ブ ルースはこの詳細についての古い資料を提唱しています。)

ルカは、ツラノの講堂でのパウロの聴衆たちは病気が癒されるのではないかと彼の仕事に使うエプロンや手ぬぐい(彼の額についた汗拭きタオル)を借りたと記録しています。 彼が仕事着のまま教えていた様子がみえてくるようです!昼休みに聞きに来ていた労働者たちはきっと同じ格好で聞いていたことでしょう。(使徒19:11,12)

エペソでの3年間の終わり頃に、パウロはユダヤ教徒たちの非難に答えるためにⅠコリントの手紙を書いています。そして彼はコリントに警告のために「悲しい立ち寄り」をし、そこで拒絶を受けました。彼はもう存在していない 「厳しい手紙」を書きました。そしてデメテリオの暴動で死ぬ寸前のところを逃れ、トロアス行くことができたのです。そして、テトスをそこで待たずに、そこでテトスと合流するためにピリピに進んでいきました。

テトスは良い知らせを持ってきました 。パウロは第2コリントで言っています。彼が三度目に訪れるときも前と同じように働くだろうと。(11:12-21)パウロが、彼の使徒としての立場が疑わ れているときにもテントメーキングを強調したということは、テントメーキングが彼の教会開拓の戦略において譲れない部分であったことを示唆しています。で も反対に見える証拠を見てみましょう。

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良くある質問と答え

  • 教会の礼拝は誰にでも開かれています。誰でも、どんな人でも出席してよいのです。ですから、悩みがある人、元気になりたい人はどうぞいらして下さい。そう でなくても、教会って何をしているのかな、聖書の教えってどんなことかな、と少しでも興味のある人はどうぞいらして下さい。礼拝に行ったらもうクリスチャ ンにならなければならない、などということはありません。教会は、ちょっとのぞいてみよう、という方も歓迎します。礼拝の秩序さえ重んじていただれば、ど のような思いで参加して下さってもよいのです。
  • Q 50代を過ぎると性欲が減退するのは避けられないことですか。

    A  年を重ねるにつれて欲求がなくなるという器質的な理由は何もありません。
    肉体的な年齢よりは、性欲の場合、心の持ち方と情緒的な条件により左右されます。夫と妻が自分を年老いて魅力がないと考えるなら、年齢よりも、二次的な理由からお互いに対する関心を失います。
    しかし、肉体的な観点からは更年期の男女が性的に無関心になるという根拠はありません。


    ドクター ジェームス・ドブソンのQ&Aから
  • 子育てQ 子どもをしつける親が、最も犯しやすい過ちとは、どのようなものでしょうか。

    A .  私の見てきているところ、それは、親が怒りによって子どもをコントロールしようとすることだろうと思います。
    どんな年齢層を対象にしても、怒りで人を動かそうというのは最も非効率的な方法です。それなのに、多くの大人たちは子どもをしつけるのに、自分の感情的な言動に頼ろうとします。

    ある先生が、全国ネットのテレビ番組で言っていました。

    「教師であることには誇りを持っています。でも毎日子どもたちを教えるのは嫌で仕方がありません。生徒たちは全く言うことを聞かないので、教室の秩序を保つために、私は絶えず怒っていなければなりません。」

    明けても暮れても、嫌みで怒りっぽい先生を演じつ続けなければならないとは、何ともご苦労なことと言わねばなりません。

    しかし多くの先生方や親たちはそれ以外の指導の仕方を知らないのです。これは、疲れるやり方であり、そして効果がありません。自分自身がどういう風に人から動かされるかを考えてみたら分かり易いでしょう。

    今晩帰宅途中に60キロオーバーのスピード違反をしてしまったとしましょう。街角に警官が立っていますが、彼にはあなたを捕まえる方法がないとします。パ トカーも白バイも持っていません。肩章も拳銃も違反切符もありません。できることは、ただ街角に立ってスピード違反をしているあなたに向かってののしるこ とだけです。警官がこぶしを振り上げるのを見てあなたは減速するでしょうか?もちろんしません。そばを通り過ぎながら手を振って挨拶するかもしれません ね。怒ったからといって、警官は何もすることは出来ません。漫画のような話です。

    一方、バックミラーの中に黒と白の車が頭上に赤いランプ を回しながら近づいてくるのを見ることほど、スピード狂のドライバーをおとなしくさせるものはありません。路肩に停車すると、威厳があり、礼儀正しい警官 が運転席に近づいてきます。2メートルもあろうかという大男で、ローン・レンジャーの様な声をし、銃身をごく短く切った散弾銃を両腰に下げています。彼は 丁寧ながら毅然とした態度で、「お急ぎのところ恐縮ですが、レーダーよると制限速度40キロのところを、100キロで走っておられたようですね。免許証を 拝見します。」と言います。
    警官は革表紙の召喚状を開いてあなたの方に顔を寄せます。彼は敵意を表したり、非難をしたりはしないのに、あなたは即座に求めに応じます。まごまごしながら、気に入らない自分の写真のついた免許証を財布の中から取り出します。
    な ぜあなたの手は汗ばみ、口はカラカラなのでしょう。どうして心臓は喉から飛び出しそうなほど脈打っているのでしょう。それは、警官がしようとしている手続 きが不愉快極まりないからです。あなたのこれからの運転癖を劇的に変えてしまうのは、警官のこの一連の行動なのです。怒りではなく、懲らしめの行いが行動 を直すのです。

    実は、大人の怒りは子どもの心に破壊的な軽蔑心を引き起こすと私は信じます。子どもには、私たちの怒りは、事態をどうに も出来ない無能さと映るのです。正しいことを教えようとするのですが、効果がないのでやたらと手を振り回し、涙を流さんばかりにして実行もしない脅迫を繰 り返すのです。
    お聞きしますが、あなたご自身はそんな風に感情的な方法で法律を守らせようとする裁判官がいたとしたら、尊敬なさるでしょうか。答えを待つまでもありません。ですから、法律の世界は意図的に、客観的で、合理的で、威厳に満ちたものとされているのです。

    私は、親たちや先生方が正当な感情を子どもたちから隠すようにと言っているのではありません。あるいは、全てをうちにしまい込んだ、応答をしない、面白味 のない、ロボットの様な人間になれと言っているのでもありません。子どもたちが侮辱的な態度を取ったり、不従順になることはありますし、私どもがいら立つ のは、無理のない場合はあります。そういう場合は、むしろ怒りを表現するべきです。そうでなければ、偽善者でしょう。

    私のポイントは、怒りがしばしば子どもたちの、行儀を直すための道具として意識的に使われるということです。しかしこれは効果がないばかりか、子どもの信頼を失うことにもなるのです。


    ドクター ジェームス・ドブソンのQ&Aから

  • Q. クリスチャンってどんな人ですか?

    A. クリスチャンとは、イエス・キリストを救い 主と信じた人です。その呼び名は、1世紀のローマ帝国時代に、キリストの弟子たちがローマ皇帝ではなく、キリストのみを唯一の「主」と告白したためにつけ られたあだ名、「クリスティアノス(キリストに属する者)」に由来しています。後に、それがクリスチャンへの迫害につながって行きます。
    誰でも、イエス・キリストを人生の主として本気で信じ、受け入れるならば、今日からでもクリスチャンになれます。キリストを信じて、あなたも勝利の生活を歩んでみませんか?