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教会についての質問と答え

神と契約を交わした人々としての教会

投稿者: Administrator on . Posted in 教会について

星を無効星を無効星を無効星を無効星を無効
 
悔い改めてイエスの死と復活に預かるバプテスマを受けたものは、精霊を神の賜物として受けた、と上に書きました。 バプテスマは、言わば神と礼拝者が契約を交わす結婚式のようなものです。人はイエスを主と信じ、救い主として信じて、イエスの名によってバプテスマを受け るのです。 神がこれを認めてその人と契約を結ぶのです。その契約の証印が聖霊なのです(エペソ1:13)。 サルこれらのユダヤ人たちは、42節で述べられているように、 クリスチャンとして3つの重要なことを行なっていました。(1)使徒たちの教え(つまりイエスの教え)を忠実に守ることです。 教会の人々は、イエスに忠実に従う人々です。主の契約に預かる人は神の教えを学び、日々その教えに従って生きていきます。 (2)神に祈ることです。天地万物を創造した神がすべてを支配していることを信じ、その神の栄光が輝き、神の教えが教会内で実践され、またより多くの人々 が神を知るように祈るのです。 (3)パンを裂くとは、主の晩餐を受けることを指しています。主の晩餐はバプテスマと同様に非常に重要なので、しっかりと理解しておきましょう。 主の晩餐はイエスによって制定されました。 ぶどう

22:14 さて時間になって、イエスは食卓に着かれ、使徒たちもイエスといっしょに席に着いた。22:15 イエスは言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。22:16 あなたがたに言いますが、過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません。」22:17 そしてイエスは、杯を取り、感謝をささげて後、言われた。「これを取って、互いに分けて飲みなさい。22:18 あなたがたに言いますが、今から、神の国が来る時までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」22:19 それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚え てこれを行ないなさい。」22:20 食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。(ルカの福音書22:14-20)

イ エスの死を覚え、イエスの復活を覚える機会が、主の晩餐によって与えられています。クリスチャンは、主の晩餐のパンを受ける時、教会をイエスのからだ(こ の概念は次に説明します)として覚え、教会内での人間関係を吟味します。また、晩餐のぶどうの実のジュースを飲む時、 クリスチャンは神の救いの業と慈悲を思い起こし、神との契約を新たなる心を持って受けます。そして、主の晩餐は主イエス・キリストが復活された週の初めの 日(日曜日)に、主の復活を覚えてクリスチャンが受けられるものです。このように、教会とは罪ある者が悔い改め、イエスの名によるバプテスマをうけて神の 子供とされる人々の集まりです。そして、聖霊で満たされたクリスチャンたちが、神を唯一の神とあがめ、神の国民とされた人たちの集まりが教会です。そこに は神の御国、神の支配、神の権威があるのです。神の権威がなければ、教会自体に権威はありません。ですから、人間によって作られた伝統や規則などはない、 人々の集まりが教会なのです。もし規則、決まりがあるとすれば、神が制定したものだけです。

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良くある質問と答え

  • Q 私たちはもうやり直しが利かないように思えます。主人は別の女性を何人も作っており、離婚すると言っています。希望はまだあるでしょうか。

    A  具体的なことが何もわからないまま答えるのはどうかと思いますが、これだけは言えます。あなたと同じようなことを言っていながら、今は幸せにしている何十もの家庭の例を私は知っています。
    私は若い夫婦のための講座を何年も教会で教えましたが、私の出席していた保守的な教会で、驚くほど不倫が多かったのです。

    あ る時、不倫をしているか、かなり危ないところにあるという19もの夫婦をお助けしていた時期があります。今でも私はこの人達を知っていますが、このうち9 家族は10年後の今、幸せな結婚生活をしています。これは低い率だと言われるかもしれませんが、この人たちの結婚は破滅の淵まで行きながら救われたことを 覚えておいてください。キリスト教信仰が重要な要素でありましたが、厳しさの伴う愛がその回復には必要でした。ですから、希望はいつもあるのです。

    最後に励ましのことばをさしあげましょう。人間の感情ほど、変わらないように見えながら実はすぐに移り変わるものはありません。
    男女の愛に関しては、一日二日で感情は180度変わることもあります。「もう二度とあなたには会いたくない」などと言った夫や妻が、数時間後には相手の胸に泣き崩れるのを私は何度も見ました。
    ですからあきらめないでください。神はあなたとご主人を見捨ててはおられません。


    ドクター ジェームス・ドブソンのQ&Aから

  • 中絶は自由?

    Q 博士の中絶に対する考えは極端だという人たちがいます。近親相姦やレイプや生まれてくる子が障害児である時でさえ、中絶は許されないと言われるからです。そういう立場を取られる理由は何ですか。

    A  文字どおり母親の命がかかっているという稀な場合にのみ、人間は発達過程にある胎児の命を奪う権威を持つと私は思います。

    その理由は、次の単純な質問に基づいています。「母親の子宮にいる赤ちゃんと、産道を30センチばかり下りた赤ちゃんとどんな基本的違いがあるのでしょう。」もしあるなら、それは何でしょう。人の誕生のどの時点で、神は子供を人間であると宣言されるのでしょう。

    赤ちゃんが母体から離れることには、単なる原形質から永遠の魂を持った人間への変化を説明する、何か特別神秘的なものがあるのでしょうか。私はないと思います。子宮内の赤ちゃんも、数分後にこの世に生まれる赤ちゃんも、確かに神様は同じ愛をもってご覧になるのです。
    両者の唯一の違いは、人の目に見えるか見えないかです。

    こ の前提を受け入れるなら、産前であれ産後であれ、子どもを殺すことは同じように人の道に反します。肉体上の問題、知的な障害、また妊娠の理由はこの際関係 がありません。思いがけない障害をもって生まれた子をその場で殺すようにとは、中絶賛成派の急先峰であっても言いません。
    実際に、人並みの知的能力を持たないであろう新生児や、数週間しか生きられないであろう新生児を殺したら、当局から殺人の責任を問われます。子どもの状況がどれほど厳しくても、私たちには自然の流れに任せるという道徳的また法律的責任があります。

    同じように、私たちは、レイプや近親相姦による妊娠だったからと言って、たった昨日生まれたばかりの子を殺すことはしません。一旦生まれたなら、ことさらに命を奪うことは考えられないことです。
    そ れならば、母の子宮にいるからといって、なぜ「標的」にされるのでしょう。確かに、法律は生まれていない子と生まれた子とに違った立場を認めますが、その 場合は法律が悪いのです。このような区別をするべき生物学的、また道徳的な理由はありません。私たちがまだ会っていない小さな犠牲者の死ぬ過程を見なくて すむ時にのみ、胎児の虐殺は受け入れられるべきかに見えるだけなのです。

    ですから、欠陥があったり障害を持つ子どもの命を断つべきだとい う議論のすべては、以上の理解に照らして検討されなければなりません。「どっちみち死ぬんだから。」「生かしておいても本人が苦しむだけだ。」「親が苦し むだけだ。」「真っ当な人生を送る見込みは、まずない。」「関係者みなにとって、これがベストの選択だ。」など様々な言い分がありますが、この世に生を受 けた赤ちゃんに適用しようとすると、こういう言い訳が間違っていることは明らかです。

    新生児にシアン化合物を与えるべき正当な理由はありません。しかし、その数時間前、妊婦の陣痛がまだ始まっていない時なら、その同じ欠陥のある胎児、または誤って妊娠に至った胎児をばらばらにしてもかまわないと考える人たちがいます。


    私 は、その主張は断固として誤りだと思います。こういう見解は、哲学的また神学的に述べることは易しくても、実際問題として直面させられる親にとっては別問 題だということは分かります。特に気にかかるのは、レイプによる子を妊娠している女性です。言語に絶するうめきと苦しみとがあるでしょう。
    しか し、そのような母親でも、もし無事出産し、自分で育てるか養子に出したならば、決してその決断を後悔することがないことを私は確信します。生まれていない 子どもにとって正しく道徳的なことは、両親にとっても結局はベストなのです。私の意見に反感を覚えるする人はいるでしょうが、これは私が信じていることで す。


    From ドクター ジェームス・ドブソンのQ&A

  • 子育てQ どのようにしたら他人種、他民族に対する健全でオープンな態度を子どもたちに持たせることができるでしょうか?

    A.  子どもを教えるのに親の模範に優るものはありません。

    ある人が言いました。「子どもがたどる足跡は、親がもう消してしまったと思っている足跡だ。」と。よく言ったものですね。子どもたちは我々親を良く見ており、本能的に我々の行いを真似るのです。

    ですから、私たちが心狭く、差別をしていながら、子どもたちには「みんなと仲良くしなさい。」とは言えません。
    同じ様に,私たちが家でも外でも礼儀をないがしろにし、感謝を表さないでいて、子どもたちに「感謝を表せ」と言っても無理というものです。
    都合の悪い人から電話がかかってきた時に、「パパはいないって言いなさい」と子どもに教えているなら、正直な子どもを育てることはできないでしょう。

    こういうことについて、子どもたちは大人の言行不一致にすぐ気がつきます。そして、得てして子どもは我々の空しいお題目より、行ないの方に習ってしまうのです。


    FROM ドクター ジェームス・ドブソンのQ&A

  • Q. 教会に行くには、どうしたらよいのですか?

    A. もし近くに教会があれば、思い切ってたずねてみてください。少し不安を感じる方は、まず電話で、その教会の「牧師(ぼくし)」に、礼拝や他の集まりの時間などを聞いてください。個人的に話をされたい場合は、やはり電話で訪問予約を取ることがいいと思います。