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教会についての質問と答え

キリストのからだとしての教会

投稿者: Administrator on . Posted in 教会について

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「キリストのからだとは、教会のことです」(コロサイ1:25) とありますように、教会はからだにたとえられます。では教会の姿を次の聖句を読んで考えてみましょう。

12:14 確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。12:15 たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。12:16 たとい、耳が、「私は目ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。12:17 もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。12:18 しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。12:19 もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。12:20 しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。12:21 そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うこともでき ません。12:22 それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。12:23 また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうに なりますが、12:24 かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。12:25 それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。12:26 もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。12:27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。(1コリント12:14-27)この聖句は人間のからだにたとえて教会の姿を言い 表しています。

つまり、教会員のひとりひとりが重要な器官の役目を果たしており、どんなに小さな役目であっても、教会には必要な役目なの です。世の中では、偉い人や重要なポストに就いている人を重視します。しかし、「それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなく てはならないものなのです」 と書かれてあるように、教会においては重要でないと思われる人こそ必要なのです。そして、キリストのからだは、キリストにあって、同じ考え方、同じ心の持 ち方、同じ態度を持っているのです。さらに、重要な事は「もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての 部分がともに喜ぶのです」と書かれているように、苦しみと喜びを分かち合う人々の集まりだという事です。これは、イエス自身によって次の様に教えられまし た。

13:34 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合い なさい。13:35 もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(ヨハネ 13:34-35)

イエスの愛が教会の人々の中に宿ります。 それゆえにクリスチャンはイエスが愛したように愛しなさいという命令を受けるのです。お互いに愛するとは、お互いに「深い同情心、慈愛、慈愛、謙遜、柔 和、寛容を身に着け、互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合い、主が赦してくださったように、赦しあう」ことです (コロサイ3:12-13)

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良くある質問と答え

  • 家族Q 老齢化に伴う肉体的な変化について教えていただけますか。

    A 全ての器官が同じレベル、また、同じ早さで衰える訳ではありません。老化には決まった順序があります。通常、すなわち病気がなにも無い時、老化のきざしは以下の順序で現れます。

    ま ず衰えるのは、まず人と外界をつなぐ感覚器官です。目の水晶体が収縮して焦点を合わせることができなくなるため、景色にも本にも焦点の合う遠近両用眼鏡を かける必要が出てきます。白内障になるとさらに視覚が衰える場合があります。三半規管が衰えると音の伝導がにぶり、若い頃のようには耳が聞こえなくなりま す。まず高い音が聞こえにくくなり、次第に低い部分に移ります。口と舌の味覚が衰えると、食物の味が落ちます。食べる楽しみがなくなります。嗅覚が落ちる ことも、味覚の変化の一因です。食事の喜びの多くは、快い香りによるからです。肌が荒れ固くなると、触覚が弱ります。このように五感がすべて弱くなり、情 報を捕えて脳に送る能力は減少します。

    次に運動機能、すなわち体を動かす力の変化です。まず指が動かなくなり、次に手の機敏さが衰え、手首、ひじ、そして肩に来ます。機能の衰えは外部から体の内側へと進みます。それで、老人の震える文字は年を表わすのです。

    そ れから循環機能に変化が訪れます。心臓内部と周囲についた脂肪のために、同じことをするにもより労力がいります。運動のあと、通常の脈拍に戻るまでにより 時間がかかります。動脈がしだいに硬化することも、心臓の負担の元です。コレステロールが動脈に溜まり血流を圧縮するので、心臓発作、脳卒中、その他の心 臓血管系の病気に結び付きます。加えて、自律神経系統が体を規則正しく機能させなくなり、血行の悪さなどの問題を起こします。生殖能力も、女性では45才 程度で、男性の場合は50才か60才で無くなります。生命を生み出すという尊い働きも終ります。

    要約すると、老化の過程に起きる重大変化は以下の通りです。第一に感覚器官が衰え、次に運動機能が衰えます。すなわち体を動かす能力です。さらに高齢になると精神的な機敏さが衰えるでしょう。


    From ドクター ジェームス・ドブソンのQ&A

  • 毎週日曜日に教会で行われている礼拝は、神様を拝む集いです。ゴスペルハウスでは、ゴスペル・ワーシップというジャンルの音楽をピアノやギターなどと共に 歌います。また、聖書が朗読され、その箇所が告げている神様からのメッセージを伝える説教が語られ、祈りがなされる、ということを通して、生きて働いてお られる神様との出会いの時を持つのです。最初は、説教という講演を中心とする講演会のような印象を持つかもしれませんが、出席しているうちに、講演会では ない、神様を拝む礼拝の意味が分かってくると思います。
  • 家族Q 学校を良くするために親は何ができますか。

    A  教育者ならたいていは、学校教育の目的を果たすためには親の協力が不可欠であることを承知しています。ただある人々は(幸い大部分ではありませんが)教育は専門家に任せて欲しいと、親を煙たがります。

    しかし、たじろいではいけません。親こそが、子どもの教育の最終責任を負うものであり、誰にもその責任を奪い取られてはなりません。教育者は、いわば従業員であり、税金で賄われ、教育委員会に責任を問われるのです。
    親が関わりを持ち、サポートする学校こそ良い学校です。

    以上を理解した上で、ぜひ学校を訪ねてみてください。教室内に計画性と互いへの尊敬としつけとが行き届いているででょうか。もしそうなら、担任と校長先生に電話して感謝のことばを伝えてはいかがでしょう。先生方も感謝されたら嬉しいものです。
    「私にも手伝えることがあれば言ってください。」と申し出るのです。風通しが悪いなら、黙っていないで行動するのです。他の親たちと話し合いなさい。積極的にPTAに参加してください。教科書を開いてみてください。

    繰り返します。親たちがよく動く時に、学校は一番よく機能するのです。


    From ドクター ジェームス・ドブソンのQ&A

  • 家族Q 博士の中絶に対する考えは極端だという人たちがいます。近親相姦やレイプや生まれてくる子が障害児である時でさえ、中絶は許されないと言われるからです。そういう立場を取られる理由は何ですか。

    A  文字どおり母親の命がかかっているという稀な場合にのみ、人間は発達過程にある胎児の命を奪う権威を持つと私は思います。

    その理由は、次の単純な質問に基づいています。「母親の子宮にいる赤ちゃんと、産道を30センチばかり下りた赤ちゃんとどんな基本的違いがあるのでしょう。」もしあるなら、それは何でしょう。人の誕生のどの時点で、神は子供を人間であると宣言されるのでしょう。

    赤ちゃんが母体から離れることには、単なる原形質から永遠の魂を持った人間への変化を説明する、何か特別神秘的なものがあるのでしょうか。私はないと思います。子宮内の赤ちゃんも、数分後にこの世に生まれる赤ちゃんも、確かに神様は同じ愛をもってご覧になるのです。
    両者の唯一の違いは、人の目に見えるか見えないかです。

    こ の前提を受け入れるなら、産前であれ産後であれ、子どもを殺すことは同じように人の道に反します。肉体上の問題、知的な障害、また妊娠の理由はこの際関係 がありません。思いがけない障害をもって生まれた子をその場で殺すようにとは、中絶賛成派の急先峰であっても言いません。
    実際に、人並みの知的能力を持たないであろう新生児や、数週間しか生きられないであろう新生児を殺したら、当局から殺人の責任を問われます。子どもの状況がどれほど厳しくても、私たちには自然の流れに任せるという道徳的また法律的責任があります。

    同じように、私たちは、レイプや近親相姦による妊娠だったからと言って、たった昨日生まれたばかりの子を殺すことはしません。一旦生まれたなら、ことさらに命を奪うことは考えられないことです。
    そ れならば、母の子宮にいるからといって、なぜ「標的」にされるのでしょう。確かに、法律は生まれていない子と生まれた子とに違った立場を認めますが、その 場合は法律が悪いのです。このような区別をするべき生物学的、また道徳的な理由はありません。私たちがまだ会っていない小さな犠牲者の死ぬ過程を見なくて すむ時にのみ、胎児の虐殺は受け入れられるべきかに見えるだけなのです。

    ですから、欠陥があったり障害を持つ子どもの命を断つべきだとい う議論のすべては、以上の理解に照らして検討されなければなりません。「どっちみち死ぬんだから。」「生かしておいても本人が苦しむだけだ。」「親が苦し むだけだ。」「真っ当な人生を送る見込みは、まずない。」「関係者みなにとって、これがベストの選択だ。」など様々な言い分がありますが、この世に生を受 けた赤ちゃんに適用しようとすると、こういう言い訳が間違っていることは明らかです。

    新生児にシアン化合物を与えるべき正当な理由はありません。しかし、その数時間前、妊婦の陣痛がまだ始まっていない時なら、その同じ欠陥のある胎児、または誤って妊娠に至った胎児をばらばらにしてもかまわないと考える人たちがいます。

    私 は、その主張は断固として誤りだと思います。こういう見解は、哲学的また神学的に述べることは易しくても、実際問題として直面させられる親にとっては別問 題だということは分かります。特に気にかかるのは、レイプによる子を妊娠している女性です。言語に絶するうめきと苦しみとがあるでしょう。
    しか し、そのような母親でも、もし無事出産し、自分で育てるか養子に出したならば、決してその決断を後悔することがないことを私は確信します。生まれていない 子どもにとって正しく道徳的なことは、両親にとっても結局はベストなのです。私の意見に反感を覚えるする人はいるでしょうが、これは私が信じていることで す。


    From ドクター ジェームス・ドブソンのQ&A