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クリスチャン信仰についての質問と答え

イエスについて、どうすれば理解を得る?

投稿者: Administrator on . Posted in クリスチャンの信仰について

星を無効星を無効星を無効星を無効星を無効
 
Q. イエス・キリストとはどのような方ですか。どうすれば知ることができますか。

A.  イエスは真実に人間となった神の子、そしてわたしたちの主キリストです。 それは聖書全巻を通して、神さまからわたしたちに証言されています。この方を知るには、信仰という神さまからの恵みに依らなければなりません。神さまは聖書を用いて、礼拝において、言葉を語り、わたしたちはこの方を知るのです。 人間の能力では決して知ることが出来ない人類最大の秘義です。

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良くある質問と答え

  • Q. 聖書とは何ですか。新約聖書と旧約聖書は、どう違うのですか。

    A. 他の古文書と同様に人間が記したものです。しかしわたしたちは次のように信じます。
    「旧 新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、教会 の拠るべき唯一の正典なり。されば聖書は聖霊によりて、神につき、救ひにつきて、 全き知識を我らに与ふる神の言にして、信仰と生活との誤りなき規範なり。」 (「日本基督教団信仰告白」より引用)
    わたしたちが自分自身でどれだけ正しく美しいと思えるものであっても、聖書の教えに反するものならば、わたしたちはそれを捨てます。神の言葉のみが真理であるからです。
    旧新約聖書は共に、神の救いの歴史を記しています。旧約聖書は天地創造から神の民とされた古代イスラエルの興隆、滅亡、再生の歴史を物語り、メシア預言 (神が人類に救い主を与える希望を表す)をもって閉じられます。新約聖書はメシア預言の成就として、イエス・キリストの誕生、生涯、受難、十字架の死、そ して復活と昇天、その後に聖霊によって建てられた教会(新しい神の民)の歴史を物語り、教会成立当初に生きた使徒たち(おもにキリストの十二弟子)の証言 を通して、救いの完成するキリストの再臨、終わりの日に向かっての希望を表して閉じられます。
  • 娘と父Q. 父親として私が、男性一般に対する娘の態度に影響を与えることはありますか。結婚したら、男性を理解し、どのように付き合っていくかを知る必要がでてきます。今からそういうことを考えておくことは大事でしょうか。

    A. そのとおりです。最初のボーイフレンドを見つける前、また初恋をするずっと前から、彼女の男性に対する態度は、父親によって静かに形作られているのです。
    な ぜでしょうか。それは、父と娘の関係は以後の全ての異性関係の基礎となるからです。父親に受け入れられなかった女性は、心の空白を埋めてくれる男性を求め 続けます。優しく暖かな父親の娘さんは父のような恋人を捜すでしょう。父が娘を美しく女性的だと思うと、彼女も自分をそう見るようになります。反対に父親 が「娘は魅力に乏しい」と思い無視すると、彼女は成人になってもセルフ・イメージの問題を引きずるようになるでしょう。
    また夫婦関係は、妻が自分の父親の権威をどう受け止めていたかに大変影響されます。娘が幼い時期に父親が威圧的できまぐれだと、娘は生涯に渡って自分の夫と主導権争いを続ける可能性があります。
    反対に父親が権威の大切さを教えるような形で愛のこもったしつけをしていると、娘は互いに尊敬しあうギブ・アンド・テイクの結婚生活により適応しやすくなるでしょう。
    花嫁の幸不幸の大部分は父親にかかっています。それで私ども父親は最大の努力を払って娘を育てるべきです。ですから父親が娘との関係に関心を持つことは大切です。


    From ドクター ジェームス・ドブソンのQ&A
  • 子育て

    Q 家族のことを考えたら、忙しすぎることがよくないことは分かります。でも、私たちの教会は平日もほとんど毎晩何かの活動をしています。夫も私もそのうちの 多くの働きのリーダーシップを取るように頼まれたり、または期待されます。 正直に言って、牧師から依頼されたことを断わると、罪意識を覚えます。結果的に、家族の時間はなくなってしまいます。この矛盾をどうしたら解決できるで しょう。

    A そのジレンマは私にも分かります。私ども夫婦も、結婚して最初の10年間は同じ葛藤を経験しました。
    まだ若かった私は、当時教会から頼まれることは何でも引き受ける義務があるかのように感じました。教会学校の校長、成人クラスの教師、教会の役員などを務 め、その他、何か特別な必要がある時は何でも引き受けていました。妻も、子供聖歌隊の指導、婦人会の役員など教会活動に深く関わっていました。私は博士過 程の最終段階にあり、仕事面での責任も膨大でした。息もつけない状態で、家には私と遊びたい盛りの娘がいるのに、ある時は17日間も夜の会合が続いたこと を思い出します。

    それ自体は重要な仕事であっても、それを引き受けるには判断力と常識とを働かせるようにと、主は私に望んでおられることが少しずつ分かってきました。一人 の人間ができることには当然限界があります。クリスチャンとしての義務、仕事、レクリエーション、社会的責任そして意味ある家庭生活などをバランスよく計 画する必要があることが分かりました。この問題を整理するのに役立った聖書のことばは以下の二つです。

    第一は、マタイの福音書14章13~14節にあります。「イエスはこのこと(バプテスマのヨハネの死)を聞かれると、舟でそこを去り、自分だけで寂しい所 に行かれた。すると、群衆がそれと聞いて、町々から、歩いてイエスのあとを追った。イエスは舟から上がられると、多くの群衆を見られ、彼らを深くあわれん で、彼らの病気を直された。」

    この時、イエスはいとこであり友であるバプテスマのヨハネの死をいたみ悲しんでいたに違いありません。「自分だけで寂しい所に」行く必要があったのです。 それでも群衆は主の居場所を知り、いやしの御手を求めて来たのです。喪中であっても、イエスは人々をあわれみ、その必要を満たされました。このことから私 の出した結論は、私たちも困難や不都合にめげず自分を犠牲にするべき時があるということです。また別の時には何千もの人々がいやしを求めてイエスに押し寄 せました。みことばを語られた後、主は弟子たちと舟に乗り込み、その場を去りました。マルコの福音書4章36節によれば「弟子たちは、群衆をあとに残し、 舟にのっておられるままで、イエスをお連れした。」疑いなく、その日の群衆には癌、盲目、身体の障害、その他あらゆる不幸を背負った人々がいたはずです。 主は彼らすべてをいやすために徹夜することもできたでしょうが、明らかに体力の限界に達して、休む必要を感じたのです。主と弟子たちが湖にこぎ出したと き、病人たちを岸辺に置き去りにしたのです。似たような出来事がマタイの福音書14章23節にも記されています。「群衆を帰したあとで、祈るために、ひと りで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。」自分を与えるべき時もあれば、なすべき大切な仕事はあっても、一人になり、祈り、日 常の雑事から逃れるべき時があります。

    イエスのしたような休憩とリフレッシュの時を確保しない人は、やりたいこともうまく進まないようになります。例えて言うなら、庭のスプリンクラーの蛇口を 多く作りすぎたようなものです。どの蛇口からも不十分な水量しか出ません。もうひとつの例をあげましょう。ぶどうを栽培する人は、枯れ枝を刈り込むだけで はなく、実のなる枝さえいくらかは刈り取ることをご存じですか。収穫量をいくらか犠牲にしても、質の良いぶどうを得ようとするのです。同じように、私たち も休みなく動き回ることをやめて、働きの全体的な質を良くするようにすべきです。

    他にもうひとつ、気をつけるべきことがあります。バランスを維持すべきだといって、教会内での責任を避ける言い訳にするべきではありません。牧師たちは 「大部分の奉仕がほんの数人の肩に負わされ、他の人は何もしようとしない。」と嘆きます。これでは困ります。ひとつの極端から、反対の極端に飛躍しないよ うに、常識を働かせましょう。

    From ドクター ジェームス・ドブソンのQ&A

  • Q. 神はどんな方?どうやって知ることが出来る?

    A. ほんとうの神は、人間が木や石で作ったものではありません。人格を持たれる生きた方です。聖書は、まことの神は
    (1)天地万物の創造者
    (2)目に見えない霊なる存在者
    (3)罪を憎まれる聖い神
    (4)愛なる神
    であると語っています。この神が、罪人である私たちを罪から救い出し、永遠のいのちと豊かな人生を与えるために、イエス・キリストを十字架につけて私たちの救いの道をつくってくださったのです。
    誰でも、自分の罪を告白して悔い改め、イエス・キリストを救い主として信じるなら、この神のゆるしと限りない素晴らしい永遠の愛を受けとることが出来ます。
    神を知る道は、聖書のみことばと心からのキリストへの信仰です。神を知るための修行や訓練、功績は必要ありません。