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良くある質問と答え

  • Q. アーメンとは、どういう意味?

    A. アーメンは「その通りです。」「真実です。」という意味です。クリスチャンがお祈りの後でアーメンと言うのは、「このお祈りの通りです。」ということを宣言しているのです。他の人のお祈りの後でも、賛同の意を込めてアーメンと言います。
  • Q 妻として、博士のおっしゃる「男女の違いが」私たち夫婦にどれほど当てはまるか気になります。夫が私をどれほど必要としているかを、私自身が十分把握していないのでしょうか。

    A  恐らくそうだと思います。性的な欲求を除けば、男性が女性に自分の必要を告げることは大変まれです。男性自身が自分の行動形態を自分で分かっていないのか もしれません。簡単に言えば、夫が自信を持つためには、妻の助けが必要なのです。彼は自信がないように見えないもしれません。男は自分の不安をを隠すのが 上手なのです。一般的に夫は妻に「尊敬されている」ことを確認したいのです。それは、妻が夫に「愛されている」のを確かめたいのと同じようなことです。

    女性のこの重要な役割について、私の友人であるE.V.ヒル博士のよい実例があります。博士は、ロサンゼルスにあるバプテスト教会の黒人牧師です。ヒル博士 は数年前に奥さんを癌でなくしました。その葬儀で、良妻のジェーンにいかに助けられたかを彼は語ったのですが、私はたいへん心を動かされました。

    若 い頃、彼は牧師として生計を立てるのに苦労しました。彼は妻の反対を押し切り、なけなしのお金をはたいてガソリンスタンドの経営に乗り出したのです。夫に はこの事業を監督する時間も技量もないと彼女は感じていました。そして結果はその通りになりました。やがてスタンドは破産し、彼は無一文になりました。若 い牧師にとってこれは人生の危機でした。重要な企てに失敗したのですから、妻に「だから言ったでしょ」となじられても仕方がなかったのです。

    しかし、ジェーンは、夫の弱味を本能的に知っていました。それで、彼がスタンドはだめだったと電話で告げたとき、彼女の答は「いいのよ」の一言でした。

    彼 はその晩、帰宅する時、先見の明のない夫の投資に妻がふくれつらをしているだろうと覚悟していました。ところが、彼女は夫のそばに腰を降ろしてこう言った のです。「ねえ、私、計算してみたのよ。あなたは煙草も吸わない、お酒も飲まない、もし両方ともやっていたなら、今回なくしたお金はとっくになくなってい たはずよ。そう考えれば今回のことは差し引きゼロよ。忘れましょう。」妻の態度によっては、夫の自尊心は跡形もなく砕け散っていたかもしれません。特に失 敗と恥の日には、男性の自我は、驚く程もろいのです。ですから、先生は妻から「あなたを信じているわ。」という言葉を聞く必要がありました。そして彼女は 確かにそのメッセージを伝たのです。

    ガソリンスタンドの失敗から間もなくのことです。彼が帰宅すると家が暗いのです。玄関を入ると、妻がキャンド ル・ディナーを用意していました。「奥様、いったい今日は、何の日でしたかね。」と彼はおどけて見せました。「何となくムードを出してみたくて。」と ジェーンは答えました。夫もそれには大賛成で、洗面所へ手を洗いに入りました。電気をつけようとしましたが、つきません。寝室に入って別のスイッチに触り ましたが暗闇のままです。若い牧師は食堂に戻って、停電かと聞いたところ、妻は泣き出しました。「あなたは精一杯働いてくれているし、私もがんばったけど 先月の電気代は払えなかったのよ。キャンドル・ディナーにしたら、あなたに知られないでいられると思って・・・」今は亡き妻の言葉を語るヒル博士の声は震 えていました。

    「もし妻に『こんなめにあったのは生まれて初めてよ。電気を切られるなんて考えたこともなかったわ。』と言われていたら、私はすっ かり自信を失い、やる気をなくしていたでしょう。ところが、妻は、『電気はそのうちつくわ。今晩はキャンドルを楽しみましょうよ。』と言ってくれたので す。」ジェーン・ヒルさんは素晴らしい方です。

    彼女の多くの賜物や特質の中で、私が一番感心したのは、夫を励まし支える妻の役目をよく自覚してい たことです。現在E.V.ヒル博士は、影響力のある指導者です。彼が自信を得、それを保つために妻の助けが必要だったなどと誰が信じられるでしょうか。し かし、男とはそういうものなのです。われわれ男性は、特に若いうちは、自信がなくて悩むのです。私自身がそうでした。妻シャーリーのお陰で私は一人前にな れたのです。何度も繰り返し言ってきたことですが、自信に欠ける私を彼女が信じてくれ尊敬してくれたために、私は外で競いあい、努力し、冒険をすることが できました。

    私が何かを成し遂げたとするならその多くは、「私がついているからね」といってくれた妻の愛と献身との賜物です。あなたもご主人のために同じことができます。彼の必要を満たしてあげなさい。その効果は私が保証します。

    ドクター ジェームス・ドブソンのQ&Aから

  • 家族Q 安楽死の方向への動きに異論があるのはなぜでしょう。病気の老人が尊厳をもった死を選ぼうとすることは、誰の迷惑にもならないはずです。質の伴った命がないわけですから、静かに自殺させてあげたらどうかと思うのですが。

    A  現代の文化的背景の中で、ご質問は大変重要なものですので、しばらく時間を割いてお答えしたいと思います。

    苦しく緩慢な死を迎える老人たちがいることを知っている私たちにとって、ご質問にあるような考えは大変魅力的なものではあります。静かに眠らせ、苦しみを逃れさせてあげる方が確かに人間的なことと思えます。

    し かし、その方向に進むなら、多くの人々が言語に絶する苦しみを味わい、社会が混乱に陥ることは火を見るよりも明らかです。人命を奪うという道徳的な側面も さることながら、安楽死はその性格上、なしくずしになることが避けられません。いったん、おりから這いだした蛇を捕まえることはできません。

    詳しく説明しましょう。治癒の見込みのない老人が、医師の助けによって自殺することが合法化されたとします。その後は、病気も重度の障害もない人の自殺に対して、何が歯止めになるのでしょうか。
    健康な老人であっても、もう生きるのに疲れたという人はどうでしょう。彼の自殺を許すのにかかりつけの医師からの許可証が本当に必要でしょうか。
    健康な老人が死を選べるとしたら、次にはそれほど高齢でない人の場合はどうでしょう。
    五十代の人は身投げをしてよいでしょうか。よくないとしたらその理由はなんでしょう。
    四十代の更年期の女性や、中年の多くのストレスを抱えた男性はどうでしょう。

    少し考えて見ると、自殺という決定的な事柄に年齢は何の関係もないことが分かります。うつ状態ではあっても健康な二十歳の学生が、治癒の見込みのない患者と同じように「尊厳ある死」を選ぶ権利があるということになってしまいます。

    もし安楽死が一部の人に合法化されたら、全面的合法化へのレールが敷かれたも同然です。年齢も、健康的要素も、クォリティ・オブ・ライフ(質の伴ったいのち)も条件とはなりえません。
    安楽死を積極的に押し進めているヘムロック協会という団体は、その事実をよく知っています。彼らは、全ての人には「死ぬ権利」があると強く主張しています。

    私 たちが今、まったく健全な胎児を切り刻んでごみ袋に捨てているなどと、1950年に誰が予想したでしょうか。四千万近い、いたいけな子供たちを母の胎から 引き裂くなどということを、誰が想像できたでしょう。最も弱い者たちにその様な非道を行った私たちが、どのようなグループの人たちをも殺すことができない と信じることができるでしょうか。

    歴史的に言って、安楽死という怪獣を招き入れてしまった国々は、大量虐殺という悪夢を実現してしまった のです。それこそ、ナチス・ドイツに起こったことです。そこではまず始めに病人と老人とを殺し、次に精神障害者、知的障害者、そして生まれつきの障害児を 殺害したのです。そこから「望ましくない者たち」すなわちユダヤ人、ポーランド人、ジプシー、生産活動に従事できない者、政治犯、同性愛者その他の人々を 殺害するまではほんの一歩でした。安楽死は絶滅収容所への最後の小さなステップでした。
    もしこのような狂気の虐殺が起こらなくても、「死ぬ権利」の合法化は毎年の自殺数を劇的に増すことは確実です。

    一 人一人の死は、残された者たちにとって、計り知れない悲嘆と罪責感と悲しみとを残します。死ぬ人にとって、自殺は安易な逃げ道に見えるかもしれませんが、 愛する者や多くの子供たちを含む親戚にとっては恐らく最も苦痛に満ちた経験です。どの観点から見ても引き出せる結論は同じです。しかし、カリフォルニア州 の第九連邦巡回控訴院は、家族計画協会対ケーシーの連邦最高裁の判決を引用しながら、安楽死を米国で合法化したのです。「神よ、われらを助けたまえ。」


    From ドクター ジェームス・ドブソンのQ&A

  • 「キリストのからだとは、教会のことです」(コロサイ1:25) とありますように、教会はからだにたとえられます。では教会の姿を次の聖句を読んで考えてみましょう。

    12:14 確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。12:15 たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。12:16 たとい、耳が、「私は目ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。12:17 もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。12:18 しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。12:19 もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。12:20 しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。12:21 そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うこともでき ません。12:22 それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。12:23 また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうに なりますが、12:24 かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。12:25 それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。12:26 もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。12:27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。(1コリント12:14-27)この聖句は人間のからだにたとえて教会の姿を言い 表しています。

    つまり、教会員のひとりひとりが重要な器官の役目を果たしており、どんなに小さな役目であっても、教会には必要な役目なの です。世の中では、偉い人や重要なポストに就いている人を重視します。しかし、「それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなく てはならないものなのです」 と書かれてあるように、教会においては重要でないと思われる人こそ必要なのです。そして、キリストのからだは、キリストにあって、同じ考え方、同じ心の持 ち方、同じ態度を持っているのです。さらに、重要な事は「もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての 部分がともに喜ぶのです」と書かれているように、苦しみと喜びを分かち合う人々の集まりだという事です。これは、イエス自身によって次の様に教えられまし た。

    13:34 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合い なさい。13:35 もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(ヨハネ 13:34-35)

    イエスの愛が教会の人々の中に宿ります。 それゆえにクリスチャンはイエスが愛したように愛しなさいという命令を受けるのです。お互いに愛するとは、お互いに「深い同情心、慈愛、慈愛、謙遜、柔 和、寛容を身に着け、互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合い、主が赦してくださったように、赦しあう」ことです (コロサイ3:12-13)