今日もバイブルしましょう!(Bible Today)

デボーションをして得られる三つ益

投稿者: Administrator on . Posted in バイブルしましょう! Daily Devotion

星を無効星を無効星を無効星を無効星を無効
 

デボーションをして得られる三つ益

1. 神の導きに生きることができます

デボーションのサンプルが明確に示しているように、私たちの具体的な生活に神さまは導きを与えてくださいます。デボーションの時、聖書を読み、思 いめぐらし、祈りながら導きを受け取ります。導きは私たちの思いの中に与えられますが、これを神さまの導きと信じて受けとめます。
私たちが直面している問題や、課題、悩み、心を満たしている感情などにも神さまは導きを与えてくださいます。神さまは私たちのことをよく ご存じであり、私たちを愛してくださり、「あなたの御言葉は、私の道の光り、わたしの歩みを照らす灯」(詩編119:105)なので、私たちの生活に対して具体的な導きを受け取ることができ、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きることができます。

2. 信仰者として成長します

聖書の言葉で言えば、
成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長」(エフェソ4:13)します。

サンプルに登場した三人は、デボーションによって得た導きを実践します。それによって彼らは「変えられる」のです。ある学生は、「それでもクリス チャンなの」と言われることを恐れずに未信者の人たちと交わり、なお神の真実が現れることを信じます。女性の信仰者は、自分だけでなく他者のことも考える 配慮に生きようとします。ある男性は、部下を責めたり、怒ったりする人から、部下の失敗をカバーする人になります。

そしてこのような変化がデボーションを通して繰り返されていきます。するとどうなるのでしょうか。
「思い」は「行動」となり、「行動」は「習慣」となり、「習慣」は「性格」をつくります。デボーションをする人の「思い」は、神の言葉に 従いたいという思いですから、デボーションを続ける人は、神さまに対して従順な人となり、愛の配慮に満ちた人になり、謙遜な人に成長していきます。信仰の 成長が確実に期待できるのです。

3. ありのままの自分でいられます

「ありのままでいいんですよ」と、色んな人が言います。でもなぜ、ありのままでいいのでしょうか。わたしの答えはこうです。
「ありのままの自分」を神さまは導いてくださるから。
「ありのまま」の自分が嫌になることってよくありますよね。人をねたんだり、自分の力のなさを思い知らされたり、人を赦せない思いが心に 溢れていたり、妻と喧嘩して口を聞いていない状態が続いたりの自分。成績が悪い自分、出世できない自分、信仰が成長していない自分。と言われればほっとしますが、ありのままでいいとは思えないのが現実です。

神さまは「ありのまま」の私に導きを与えて、わたしを別の所に導いて下さいます。神さまは御言葉を通して、励ましてくださいます。成長へと導いてくださいます。

今日の「ありのまま」は明日の「ありのまま」とは違うのです。

私はいつも神さまに愛され、いつも神さまの導きを受けることができます。神さまの導きの対象は「ありのまま」の私なのです。だから「ありのまま」の自分をいつも喜ぶことができます。

 

(このガイドは、http://hola.la.coocan.jp/devotion/dev_index.htmlの牧師堀江明夫による「御言葉に生かされる恵み」からのもので、許可を得て転載したものです。)

スポンサーサイト:

良くある質問と答え

  • それでは、教会が具体的にどのような人々の集まりなのかを、共に聖書から考えてみましょう。 次の3つの特徴があります。

    (1)神と契約を交わした人々としての教会、

    (2)キリストのからだとしての人々、

    (3)神を愛し隣人を愛す人々。

    これらの3つの要素は神が制定したものです。私が作成したものでもなく、ある人間の伝統とか個人的な好みとか考えは含まれていません。 これらの要素を一つ一つ吟味してみましょう。
  • 子育てQ. 最近、子どもと過ごす時間があまりとれないのですが、一緒にいられる時は大事にしたいと思っています。子どもと過ごす時間の質が、長さよりも大事だという意見に、先生は同意なさいますか。

    A.  私には、その考えの論法があやまりだと思えるのです。
    なぜ、時間の質と、長さのどちらかを選ばなければいけないのでしょうか。私たちの生活の他の場面で、そういう選択を迫られることはありません。どうして、子どもと過ごす時間についてのみ、そのように考えるのでしょう。

    例 えばの話です。あなたが、町で有数のレストランで食事をするのを楽しみにしているとします。ウェイターが持ってきたメニューを見て、あなたは、一番高級な ステーキを注文しました。ところが、出てきたのは、お皿の真ん中に、三センチ四方の小さなお肉が乗っているだけです。あなたが苦情を言うと、ウェイターは 答えます。
    「確かに小さいことは小さいですが、最高品質のビーフでございます。これ以上の味はどこでもお目にかかれないと思います。なにしろ、大 事なのは量ではなく、質でございますから。」当然ながら、あなたは憤慨します。なぜなら、食事はもちろん、多くのものは質、量ともに大事だからです。

    子どもと過ごす時間についても、同じです。子どもたちは、親と過ごす時間が必要であり、私たちは最善のものを彼らに与えるべきです。私には、「量か質か」という議論が、子どもたちにそのどちらも与えない言い訳に使われているような気がしてならないのです。


    ドクター ジェームス・ドブソンのQ&Aから

  • 聖書の語る神様は、天地の全てを造り、私たちに命を与え、人生を導き、そして命を取り去られる方です。その神様が、独り子であるイエス・キリストを私たち の救いのためにこの世に遣わして下さいました。イエス・キリストは「独り子なる神」です。キリスト教はイエス・キリストが始めた宗教ではありません。イエ スをキリスト(救い主)と信じる宗教です。キリストは「開祖」ではなく、信仰の対象である神なのです。天地の創造主でありキリストの父である神と、独り子 なる神キリストと、そして聖霊なる神の三者であり、同時に一人の神である「三位一体の神」を私たちは信じています。
  • 悔い改めてイエスの死と復活に預かるバプテスマを受けたものは、精霊を神の賜物として受けた、と上に書きました。 バプテスマは、言わば神と礼拝者が契約を交わす結婚式のようなものです。人はイエスを主と信じ、救い主として信じて、イエスの名によってバプテスマを受け るのです。 神がこれを認めてその人と契約を結ぶのです。その契約の証印が聖霊なのです(エペソ1:13)。 サルこれらのユダヤ人たちは、42節で述べられているように、 クリスチャンとして3つの重要なことを行なっていました。(1)使徒たちの教え(つまりイエスの教え)を忠実に守ることです。 教会の人々は、イエスに忠実に従う人々です。主の契約に預かる人は神の教えを学び、日々その教えに従って生きていきます。 (2)神に祈ることです。天地万物を創造した神がすべてを支配していることを信じ、その神の栄光が輝き、神の教えが教会内で実践され、またより多くの人々 が神を知るように祈るのです。 (3)パンを裂くとは、主の晩餐を受けることを指しています。主の晩餐はバプテスマと同様に非常に重要なので、しっかりと理解しておきましょう。 主の晩餐はイエスによって制定されました。 ぶどう

    22:14 さて時間になって、イエスは食卓に着かれ、使徒たちもイエスといっしょに席に着いた。22:15 イエスは言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。22:16 あなたがたに言いますが、過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません。」22:17 そしてイエスは、杯を取り、感謝をささげて後、言われた。「これを取って、互いに分けて飲みなさい。22:18 あなたがたに言いますが、今から、神の国が来る時までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」22:19 それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚え てこれを行ないなさい。」22:20 食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。(ルカの福音書22:14-20)

    イ エスの死を覚え、イエスの復活を覚える機会が、主の晩餐によって与えられています。クリスチャンは、主の晩餐のパンを受ける時、教会をイエスのからだ(こ の概念は次に説明します)として覚え、教会内での人間関係を吟味します。また、晩餐のぶどうの実のジュースを飲む時、 クリスチャンは神の救いの業と慈悲を思い起こし、神との契約を新たなる心を持って受けます。そして、主の晩餐は主イエス・キリストが復活された週の初めの 日(日曜日)に、主の復活を覚えてクリスチャンが受けられるものです。このように、教会とは罪ある者が悔い改め、イエスの名によるバプテスマをうけて神の 子供とされる人々の集まりです。そして、聖霊で満たされたクリスチャンたちが、神を唯一の神とあがめ、神の国民とされた人たちの集まりが教会です。そこに は神の御国、神の支配、神の権威があるのです。神の権威がなければ、教会自体に権威はありません。ですから、人間によって作られた伝統や規則などはない、 人々の集まりが教会なのです。もし規則、決まりがあるとすれば、神が制定したものだけです。