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デボーションの七つのステップ

投稿者: Administrator on . Posted in バイブルしましょう! Daily Devotion

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デボーションの七つのステップ(概論)

デボーションの準備

静かな場所で心を神様に向けられる時を用意します。デボーションした内容はノートに書いておくと忘れないし、神の導きを振り返ることができます。 30分~一時間位、時間を確保します。それだけの価値のある時間となります。また時間を確保することにより、御言葉を大切にするライフスタイルがつくられ ます。時間の使い方は、人が何を大事にしているかを表しています。

デボーションの七つのステップ

1.    礼拝(第一ステップ)

デボーションは聖書を読んで理解し学ぶことではなく、聖書を通して神に聞く行為です。私たちは神様の前に出ることになります。それ故、心を静め、賛美し、祈ります。

デボーションの時働かれるのは聖霊様ですので、その働きを求めることが大切です。聖書を読み、理解・悟りが与えられるように、実践に移れるように聖霊の導きを求めます。そしてみ言葉に従う従順な思いのあることを告白するとよいと思います。

2.    静聴(第二ステップ)

聖書を開き、2~3度声を出して聖書を読みます。そして内容観察として、読んだ聖書の内容を2~3行に要約してノートに書きます。的確に要約しようと神経を使わず、大ざっぱな要約でかまわないでしょう。聖書は10節くらいの一段落をデボーションの対象とします。

次に聖霊の導きを心の中に祈りながら、今日のテキストは、神について何を語っているのかを注意深く観察します。私たちの信じる神様は三位 一体の神様ですから父について、御子について、聖霊について何を語っているかを観察してノートに書きます。私たちは聖書を通して神がいかなる方かを具体的 に理解します。

次にテキストはわたしに何を教えているのかを観察します。

観察の目安として<SPACE>(スペース)という言葉がありますが、知っていれば役に立ちます。テキストから私たちが読みとる教えは、

o    私たちの罪(Sin)、
o    神様の約束(Promise)、
o    避けるべき行為(Action to avoid)、
o    なすべき行動(Command)、
o    ならうべき模範(Example)


をテキストの中から読みとります。このような目安を念頭において聖書を読むと聖書からの教えを的確に受け取ることができます。 これ以外の目安をもうけても差し支えありません。私の場合では「教え」「黙想」などの目安を必要に応じてもうけています。示された事柄をノートに書きます。なお<SPACE>のすべての教えを読みとる必要はありません。

3.    適用と祈り(第三ステップ)

聖書の内容を聞いたのなら次にそのみ言葉が私たちの生活の中にどのように適用されるのかを思いめぐらし、神の導きを求めます。

自分自身(最近起きた事柄、最近の気持ち、状態、仕事、課題、教会)のこと、家族、近所の人、職場の人、教会の人々、友人知人など周囲の 人やその人たちとの関わり、などを思い浮かべつつ、テキストから教えられたことがどのように具体的に適用されるのかを思いめぐらします。そして神様の導き を受け取ります。(デボーションのサンプルを参考にしてください。) 

祈りながら思いめぐらすなかで、自分の現実に光りが当てられ、適用が心の中に「思い」として与えられます。

教えられたことを神さまに語り、適用を導いてくださいと祈り、思いめぐらし、導きを受け取ります。この過程は祈りであり、そのままノートに書くとよいと思います。

4.    応答の祈り(第四ステップ)

神様がみ言葉を通して私たちに対する導きを与えてくださったことを感謝し、導きに従いますと神さまに告白します。

5.    優先順位(第五ステップ)

神様から示された事柄を書きます。その他、その日なすべき事柄を書きます。優先順位をつけて書くとよいと思います。今日一日それを行う行動指針とします。

6.    実践(第六ステップ)

今日の一日を過ごしますが、示された事柄を行うことが大事なことですので実践します。

7.    夕べの黙想(第七ステップ)

一日を振り返り、実行したことにはその結果を書きます。結果について神様の導きみ業が示されれば感謝を持って書きとめます。実行できなかったことについては、反省をします。

(このガイドは、http://hola.la.coocan.jp/devotion/dev_index.htmlの牧師堀江明夫による「御言葉に生かされる恵み」からのもので、許可を得て転載したものです。)

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良くある質問と答え

  • 子育てQ. 最近、子どもと過ごす時間があまりとれないのですが、一緒にいられる時は大事にしたいと思っています。子どもと過ごす時間の質が、長さよりも大事だという意見に、先生は同意なさいますか。

    A.  私には、その考えの論法があやまりだと思えるのです。
    なぜ、時間の質と、長さのどちらかを選ばなければいけないのでしょうか。私たちの生活の他の場面で、そういう選択を迫られることはありません。どうして、子どもと過ごす時間についてのみ、そのように考えるのでしょう。

    例 えばの話です。あなたが、町で有数のレストランで食事をするのを楽しみにしているとします。ウェイターが持ってきたメニューを見て、あなたは、一番高級な ステーキを注文しました。ところが、出てきたのは、お皿の真ん中に、三センチ四方の小さなお肉が乗っているだけです。あなたが苦情を言うと、ウェイターは 答えます。
    「確かに小さいことは小さいですが、最高品質のビーフでございます。これ以上の味はどこでもお目にかかれないと思います。なにしろ、大 事なのは量ではなく、質でございますから。」当然ながら、あなたは憤慨します。なぜなら、食事はもちろん、多くのものは質、量ともに大事だからです。

    子どもと過ごす時間についても、同じです。子どもたちは、親と過ごす時間が必要であり、私たちは最善のものを彼らに与えるべきです。私には、「量か質か」という議論が、子どもたちにそのどちらも与えない言い訳に使われているような気がしてならないのです。


    ドクター ジェームス・ドブソンのQ&Aから

  • 子育てQ. 博士ご自身、父親としての最大のチャレンジは何でしたか。また、そこから何を学ばれましたか。

    A. 子どもの健康を保ち、教育を受けさせ、自分のことを自分でできるようにさせ、神と人とを愛するように育てることは、人生で最大のチャレンジだと思います。 その複雑さと予測できないことが多いことは、宇宙飛行の技術以上のものがあると思います。そして、クリスチャンの親が家庭で教えようとしていることと、 ちょうど反対のことを社会が教えてしまうような時代には、親の仕事はいっそう困難です。私たちは決して完全な父また母であることを求められているわけでは ありません。私たちの過ちや失敗にもかかわらず、子どもたちは普通は善良な大人に育つのであり、親に自慢する権利はありません。
    もちろん私も父親として失敗をしました。同世代の多くのお父さん方と同様、私も仕事のプレッシャーと家族の必要とのバランスを取るのに苦労しました。私が家にいなかったわけではありませんが、その時間を十分取ることは大変でした。
    私 の最初の著書「思いきってしつけましょう」が出版されたのと、第二子ライアンが与えられたのは、たまたま同じ週でした。赤ちゃんのおかげで家中がてんてこ まいになるのは普通ですが、拙著に対する反響がそれに輪をかけました。当時私は、医学部の専任教授でしたが、何千通もの手紙とありとあらゆる種類のリクエ ストが洪水のように押し寄せました。突然の反響をどう処理したら良いか途方に暮れました。ある時など、木曜日の夜にニューヨークに飛び、三日間で17のテ レビ番組と記者会見をこなし、翌週の月曜の朝に帰宅したことを思い出します。目が回るような日々でした。私にとって、いつも暗闇の中の灯台のような役目を してくれていた父は、私の事情を知って手紙をくれましたが、それが大きなきっかけになりました。
    まず、父は私の成功を祝福してくれた後で、「この世でのどれ程の成功も、家庭での失敗を埋め合わせることはできないよ。」と警告してくれました。
    子 どもたちの精神面の幸せが私の最大の責任であり、子どもたちの信仰を築き上げるただひとつの方法は、信仰生活を目で見せ、あとはひざを折って祈ることであ るということを父は思い起こさせてくれました。私が持てるエネルギーを全て仕事に注いでいたとしたら、それはとてもできないことでした。
    父の貴重なアドバイスを決して忘れたことはありません。結局、私は大学の職を退き、現在のミニストリーを始めるように導かれ、自宅にいる時間を確保できるようになりました。
    ラジオ放送を始めて、講演依頼を引き受けることをあえてやめましたので、出歩くことが減りました。拙著の販売促進のための旅行や、その他長期間家族の顔を見られなくなる種類の責任を引き受けないようにしました。
    あの時代のことを思い起こすと、子どもたちとの関わりを優先する決断をしてよかったと思います。今、息子や娘とよい関係を持っているのは、彼らが父親を必要としていたあの時期に私が家族のための時間を作ったからだったと思うのです。
    こ の回答を読んでいるお父さんの中には、あの頃の私のような立場にいる方々が多くいらっしゃるでしょう。もしあなたがその一人であるなら、ぜひ家族を第一に していただきたいと申し上げたいのです。今あなたの足元にまといつくお子さんたちは、あっという間に大きくなってしまいます。今のチャンスをみすみす逃さ ないでください。
    その代価はどんな仕事の業績や成功にも代えられません。あなたが私の年齢になった時には、家族との関わりに勝るものは人生にないことを実感なさることでしょう。


    From ドクター ジェームス・ドブソンのQ&A
  • Q. 教会には、なぜ十字架があるの?

    A. ローマ時代、十字架刑というのは、もっとも恐 ろしい犯罪者への刑罰の方法でした。イエス・キリストは何の罪も犯されませんでしたが、約2000年前に 2人の強盗と一緒に十字架につけられました。それは、「私たちの罪の身代わり」であった、と聖書は語っています。十字架上でイエス・キリストが流された血 潮によって、私たちの罪はゆるされ、聖なる神の前で「義」とされるのです。
    そのことをいつも心に覚えて忘れないために、多くの教会には十字架がシンボルとして付けられていますが、十字架に手を合わせて拝んだりするためではありません。
  • Q. 聖書とは何ですか。新約聖書と旧約聖書は、どう違うのですか。

    A. 他の古文書と同様に人間が記したものです。しかしわたしたちは次のように信じます。
    「旧 新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、教会 の拠るべき唯一の正典なり。されば聖書は聖霊によりて、神につき、救ひにつきて、 全き知識を我らに与ふる神の言にして、信仰と生活との誤りなき規範なり。」 (「日本基督教団信仰告白」より引用)
    わたしたちが自分自身でどれだけ正しく美しいと思えるものであっても、聖書の教えに反するものならば、わたしたちはそれを捨てます。神の言葉のみが真理であるからです。
    旧新約聖書は共に、神の救いの歴史を記しています。旧約聖書は天地創造から神の民とされた古代イスラエルの興隆、滅亡、再生の歴史を物語り、メシア預言 (神が人類に救い主を与える希望を表す)をもって閉じられます。新約聖書はメシア預言の成就として、イエス・キリストの誕生、生涯、受難、十字架の死、そ して復活と昇天、その後に聖霊によって建てられた教会(新しい神の民)の歴史を物語り、教会成立当初に生きた使徒たち(おもにキリストの十二弟子)の証言 を通して、救いの完成するキリストの再臨、終わりの日に向かっての希望を表して閉じられます。