堀江明夫先生の証:デボーションについて1997年
堀江明夫先生の証:
私にとってのデボーション(1997)
聖書を仕事で読むことをしなくなった
牧師が陥りやすい過ちの一つは、聖書を仕事として読むことです。それは必要なことですが、それだけになってしまい、一人の信仰者としてみ言葉に生 かされることがなくなってしまう危険があります。説教も教える説教になってしまい、み言葉が人を生かすことを伝える説教にならない危険があります。
知的信仰からの飛躍
何かで読みました。韓国の教会はよく祈る。台湾の教会はよく賛美する。日本の教会はよく学ぶ。
聖書を学ぶことは大切なことです。学べば、聖書の知識は増えていきます。理解も進みます。聖書的なものの見方、考え方が身について、それによって歩むことができます。それは必要なことです。でもそれだけでは不十分です。
今日、自分の与えられた場で生きる私に対する神の語りかけを聞くことも必要です。モーセは何故、約束の地に入れなかったのでしょうか。それは彼が、今語りかけて下さる神の声に聞き従わないで、信仰的常識的判断で行動したからではないでしょうか。民数記20章に次のような物語があります。荒 野を旅していたイスラエルは飲み水に困り、モーセに不満を言いました。モーセが神に解決を求めたとき、神は、「岩に命じて水を出させなさい」と答えまし た。しかし、モーセは、杖で岩をたたいて水を出しました。何故なら、以前、杖で岩をたたいて水を出した経験があるからです。彼の信仰的常識からすれば、杖 で岩をたたいて水を出すのが、神の解決でした。しかし神は、今回は、杖を使わず、岩に命ぜよ、でした。今、この時、語りかけて下さる神のみ声に聞くことは 大切なことなのです。
聖書を漠然と読むことをしなくなった
日々聖書を読むとき、ある目標・方法によって読めばよいのでしょうが、持ち合わせていませんでした。心惹かれる聖句に下線を引いたり、感想をノートに書いたり。今考えれば、漠然とした読み方でしたが、卒業しました。
私は信じる・・・
私はあなたを母の体内に造る前からあなたを知っていた。 私はあなたを聖別し諸国民の預言者として立てた」 (エレミヤ 1:5) 私の目にあなたは価高く、貴く 私はあなたを愛し (イザヤ 43:4)
私は信じます、
神のみ心によって私は誕生した。
神はかけがえのない存在として私を創造された。
神は私の人生に対して計画をもっておられる。
神の計画は私にとって最善の計画である。
神の計画に生きることが私の幸福である。
神が与えられる祝福、それは神の計画に生きることである。
私は日々生きる。 様々な問題、課題に直面しながら。
聖書に基づく、信仰的な判断を私は必要とする。
だから、聖書の学びは欠かせない。
神は、聖書を通して日々、私を導くべく語って下さる。
日々、神のみ心を知って私は生きてゆく。
私は日々、神のみ声を聞く。
だから私はデボーションをする。
あなたのみ言葉は私の道の光、 私の歩みを照らす灯。 (詩篇 119:105)
語りかける神
聖書は昔書かれた古典です。それが書かれた当時、その内容がどういう意味を持っていたのか理解することが大切なことは言うまでもありません。だから、聖書の学び、聖書の研究が必要となります。
しかし、聖書は信仰者にとっては、古典と言うだけではなく、信仰と生活のための規範ともいうべき書物です。あるいは、神の言葉であると言 えます。聖書を通して神さまは私たちに語りかけて下さいます。礼拝の説教において、説教者を通して語られる神の声に私たちは耳を傾けます。
また私たちは聖書を開き、自分で神さまの語りかけに聞くことができます。デボーションをして、自分に語りかけて下さる神の声を確かに聞くことができますし、神の導きを受けることができます。聖書の言葉によって、私の置かれた状況が照らし出され、聖書の言葉を通して、神さまが私に導きを与 えて下さいます。その導きを受け取る、それが私にとってのデボーションです。信仰者として生きる限り、デボーションなしに済ませることはできない、そう考えています。
神の導きを受けて生きている、と実感させてくれるのがデボーションです。
(このガイドは、http://hola.la.coocan.jp/devotion/dev_index.htmlの牧師堀江明夫による「御言葉に生かされる恵み」からのもので、許可を得て転載したものです。)