電道(E-vangelism)

計画を練る:計画

投稿者: Administrator on . Posted in 電道 E-vangelism

星を無効星を無効星を無効星を無効星を無効
 

2.1 新しい「言語」を学ぶ

ク リスチャン専門用語は避けてください。ほとんどの人は意味がわからないのです。自分の読者のことを絶えず思い描いてウェブページを作成して下さい。あなた の読者はもしかしたら、若い人、学生などでキリスト教なんかより、もっと色んな世界のことに興味があるかもしれません。ほとんどの場合、あなたの読者は" ジェネレーションX"と呼ばれる世代の人たちでしょう(伝道、特有の考え方については次のリストを参照して下さい)。

参考(日本語)

若者向けの肩ひじ張らないメッセージ

ア―サ・ホ―ランド率いるクリスチャンのバイクミッション。目一杯走り、そして目一杯神の愛を伝える。

ク リスチャン作家のBeverley Carusoは"Writing for the International Reader(国際的な読者向けに文章をかくには)"でこう言っています。"私たちの読者は、情報を個人的に取り入れます。ですから、私たちはたくさんの 人たちを対象にするより、たったひとりの読者のためにというような気持ちで書いてください。作家としての仕事は、ひとりの人に代表されるような読者を認識 することです。ある作家は、読者代表の写真を机の上に置いているほどです。" ですから、まず書き始める前に読者についてできる限り知ってから、あなたの 語ろうとしていることを同じ立場の者として語ってください。(権威ある者の見下した態度では誰も読みたいとは思いません。)1人の人に書こうと心がけた 時、クリスチャン専門用語は自然と避けるようになるのではないでしょうか?

自分の常識に基づいた憶測は避けてください。未信者は、クリスチャンとは違った考え方をするのです。私たちは絶対的な真実を信じていますが、彼らは絶対的なものなんてないとしています。 "それは、あなたにとって真実かもしれないけど、わたしにとっては違う。お互い違う真実があってもいいんじゃない?"という考え方です。

2.2 伝わらない「言語」-宗教的な専門用語は通じないー

すべてのことをクリスチャン専門用語を使わずに説明してください。もし、どうしてもクリスチャン専門用語を使わなくてはならない場合は、その意味を説明してください。以下の言葉は、よほどの事がない限り、まず未信者には無意味だと思ってください。

"新しく生まれる"、"救い"、"罪人"、"救い主"、"義とされる"、"聖霊"、"証"、"伝道"、"確信"、"贖い"、"キリストに導かれる"、"宣教"、"届いて行く"、"悔い改め"などほか1000くらいあります。

教会用語の紹介(日本語)

日本語になったキリスト教の言葉

もし、あなたが今までクリスチャンを対象に本を書き、説教をしてきたなら、言葉の切り替えは簡単ではないかもしれません。ブラジル在住のクリスチャン作家のマリオさんはこう言っています。

" わたしが物語の中で気をつけていることは、宗教、牧師、教会などの名前は避けるということです。たくさんの人たちは宗教にうんざりしているし、宗教くさい ものには避けてしまうのです。ですから、「彼は第一バプテスト教会へ牧師の説教を聴きに行った」とはせずに、「彼は誰かが聖書について教えているところへ と出かけていった」とします。"

あなたが、コンピュータの本や何かのマニュアルを相手に苦戦しているところを想像して見て下さい。"何で、この略語や専門用語の説明がないんだ?!"と言いたくなるでしょう?

2.3 聖書の箇所をウェブページで引用するには

聖 書は力強く、愛に満ちた剣――真理の道を切り開き、心に受け入れる道を備えてくれるもので、人々の頭を打つようなものではありません。けれども、読者が聖 書についての基礎知識をもっているとは限らないのです。西洋のキリスト教国と呼ばれる国々でさえも、人々は聖書についてわずかの知識しか持ちあわせていな いのです(イギリスで52%の人はピラト総督を知らないとする)。もし、あなたが、"使徒パウロがコリントで語ったように"といった表現を使うなら、読者 は、"使徒って何?パウロって誰?コリントって何処?"ということになります。すべてのことを説明しながら書いてください。対象はクリスチャンではないの です。ページの左端にインフォメーションコーナーを設け、聖書の略語、歴史的背景、その他の情報を説明するのも一策です。

聖書を引用する時、聖書箇所を省いて、"いかにも、教会臭い"のを避け、聖句を単独で使うより、文章上で意味が分かるように引用する。事実、聖書に書いてある事を、聖句をそのまま引用しなくても説明できるはずです。

2.4 分けることも必要ークリスチャンとノンクリスチャンのウェブページは混合しないー

私 たちはクリスチャンの為のウェブページと伝道ウェブページを混合しないことをお勧めします。もし、クリスチャンの為のウェブページは、あなたのミニスト リー、宣教、教会などについて書けますが、伝道ウェブページと両立する場合には、クリスチャン相手に説教しながら片手間に未信者に福音を語る事になってし まいます。ウェブページ上では、複数のターゲットとなる人たちに語るというより、個人に語るのです。

この 2種類のグループ(クリスチャン&ノンクリスチャン)には言葉と考え方には明暗を分けるほどの違いがあります。そのため、この2種類のグループを同時に取 り扱うのはとても難しいのです。もし、この2つのあいだでリンクを結ぶとしても、目次、イントロダクションは別に書き分けてください。そして、未信者の為 のウェブページにオプションとして、伝道ウェブページへと導くリンクを付けてください。もし、未信者が"どのように福音を語るか"といったウェブページに 簡単にアクセスしてしまったら、きっとその人は嫌な気がしてしまうでしょう。多くの人は、"罪人を救い出す"ことのターゲットにされているのを快くは思い ません。それを見るなり、大抵の人はそのウェブページから抜け出てしまいます。手際の悪さによって、つまずきを与えてしまわないように気を付けてくださ い。(けれども、クリスチャンの為に作られたウェブページが未信者の為に用いられることがあるのも考慮に入れてください。)

2.5 心を通わせるにはー他の人の「基準」に敏感になるー

誤 解しないでください、私たちは福音が妥協されたり、低くされたりすることを提案しているのではなく、他の人に解りやすく表現されるべきだと言いたいので す。諺にもあるように、"もし、彼らに聞こえなかったのなら、あなたは言っていないのと同じです"。また、他の人のもっている"文化"に敏感に対応しなけ れば、あなたは彼らに福音を伝える機会を失ってしまうでしょう。宣教師達は文化と宗教に関してとても敏感に対応しなくてはならないことを肌で理解していま す。国外追放される可能性があるばかりではなく、否定的な説教や公然と非難することによっては福音は広まらないからです。

不 適当ウェブページ作成において、国外追放される可能性はまずないですが(笑)、福音に汚名を着せてしまったり、福音対する偏見を持たせてしまったりする可 能性もあるのです。残念なことですが、とあるクリスチャンのグループがある国のクリスチャンのリーダー達の忠告を無視し、ダイレクトメールで不適当な伝道 的文書をあちこちに送ったため、その国でのクリスチャンの活動は規制されてしまいました。ですから、抗議をうけてしまうようなことのない様に気を付けてく ださい。私たちは人々を宗教に売り渡すのではなく、神様との交わりを薦めているのです。

2.6 説教的なページにしないー説教よりも、ユーモアを用いたアプローチをするー

イ ンターネットは最近できた気軽なメディアです。私たちは宣言すべき絶対的な真実がありますが、頭ごなしに説教的、教義的にするのはいい方法とは言えませ ん。見下したような書き方はせず、他の考え方にも敬意を払ってください。柔らかい言い回しで、ユーモアに溢れる書き方をお勧めします。時には、読者に考え させるような質問を投げかけてみるのもいいでしょう。説教よりも、ユーモアを用いたアプローチをするほうが効果的です。ユーモアは、防御の壁を壊し概念を 人々の心に植え付けることができるのです。作家のShmuley Boteachはこう言っています。

"私たちが恐れるような話題でも、ユーモアを使うと、恐れないような方法でアプローチすることができるのです。ほとんどの人がユーモアの乏しいひとからの情報は受け入れにくいとしています。"

FEBA's  ガイドは、説教的にせず、3人称を使うことを薦めています。例えば、"あなたは善い事をすることによって神に近づくことはできません。あなたはイエス・ キリスト信じなければなりません。"とするより、"クリスチャンは善い事をすることによって神に近づくことはできるとは考えません。人は皆イエス・キリス ト信じなければなりません。"とします。人は自分の在り方に敬意を払ってもらい、選択の自由を与えられた時のほうが、メッセージを受け入れやすいもので す。

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良くある質問と答え

  • 「キリストのからだとは、教会のことです」(コロサイ1:25) とありますように、教会はからだにたとえられます。では教会の姿を次の聖句を読んで考えてみましょう。

    12:14 確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。12:15 たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。12:16 たとい、耳が、「私は目ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。12:17 もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。12:18 しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。12:19 もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。12:20 しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。12:21 そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うこともでき ません。12:22 それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。12:23 また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうに なりますが、12:24 かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。12:25 それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。12:26 もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。12:27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。(1コリント12:14-27)この聖句は人間のからだにたとえて教会の姿を言い 表しています。

    つまり、教会員のひとりひとりが重要な器官の役目を果たしており、どんなに小さな役目であっても、教会には必要な役目なの です。世の中では、偉い人や重要なポストに就いている人を重視します。しかし、「それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなく てはならないものなのです」 と書かれてあるように、教会においては重要でないと思われる人こそ必要なのです。そして、キリストのからだは、キリストにあって、同じ考え方、同じ心の持 ち方、同じ態度を持っているのです。さらに、重要な事は「もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての 部分がともに喜ぶのです」と書かれているように、苦しみと喜びを分かち合う人々の集まりだという事です。これは、イエス自身によって次の様に教えられまし た。

    13:34 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合い なさい。13:35 もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(ヨハネ 13:34-35)

    イエスの愛が教会の人々の中に宿ります。 それゆえにクリスチャンはイエスが愛したように愛しなさいという命令を受けるのです。お互いに愛するとは、お互いに「深い同情心、慈愛、慈愛、謙遜、柔 和、寛容を身に着け、互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合い、主が赦してくださったように、赦しあう」ことです (コロサイ3:12-13)
  • 子育てQ 子どもが巣立つときに、母親がうつ的になり「空になった部屋」を受け入れることができなくなることをよく聞きますが、わが家の場合はむしろ父親で、一ヵ月以上も意気消沈していました。こういうことはまれなのでしょうか。

    A. いいえ、よくあることです。最近の調査ですが、大学一年生を持つ189人の親に、子どもが家を出た時の気持ちを聞きました。驚いたことに、母親より父親の 方がこたえたというのです。米国ではこれを「空っぽの巣」症候群などと言いますが、映画「花嫁の父」(1950年)は、これがメイン・テーマでした。あの 映画は娘を思う父親への、心にしみる素晴らしい捧げ物であると思います。父親のジョージは、食卓で娘の婚約のニュースを耳にして驚きます。自分の耳を信じ られないのです。目をこする彼の前に、娘の赤ちゃん姿、次に10歳のおてんば娘、そして18歳の美しい娘盛りの姿が次々に現われました。娘はあっと言う間 に成長し、もう家を出ようとしているのです。もう自分は娘にとって第一の男性ではなくなったのであり、彼には悲しみの時が必要でした。
    なぜ男性が時に子どもの巣立ちをこれ程に悲しむのでしょうか。主なる原因のひとつは後悔です。あまりに忙しく働きすぎて、年月は矢のように過ぎてしまいました。そして新しい家庭を築こうとしている娘と、もう一度親子関係をやり直すには遅すぎることに気づくのです。
    子どもたちがまだ家にいるお父さん方に申し上げます。一緒にいることのできる、一時一時を大切に味わってください。この時は、またたく間に過ぎ去って行くのですから。


    FROM ドクター ジェームス・ドブソンのQ&A

  • 家族Q 安楽死の方向への動きに異論があるのはなぜでしょう。病気の老人が尊厳をもった死を選ぼうとすることは、誰の迷惑にもならないはずです。質の伴った命がないわけですから、静かに自殺させてあげたらどうかと思うのですが。

    A  現代の文化的背景の中で、ご質問は大変重要なものですので、しばらく時間を割いてお答えしたいと思います。

    苦しく緩慢な死を迎える老人たちがいることを知っている私たちにとって、ご質問にあるような考えは大変魅力的なものではあります。静かに眠らせ、苦しみを逃れさせてあげる方が確かに人間的なことと思えます。

    し かし、その方向に進むなら、多くの人々が言語に絶する苦しみを味わい、社会が混乱に陥ることは火を見るよりも明らかです。人命を奪うという道徳的な側面も さることながら、安楽死はその性格上、なしくずしになることが避けられません。いったん、おりから這いだした蛇を捕まえることはできません。

    詳しく説明しましょう。治癒の見込みのない老人が、医師の助けによって自殺することが合法化されたとします。その後は、病気も重度の障害もない人の自殺に対して、何が歯止めになるのでしょうか。
    健康な老人であっても、もう生きるのに疲れたという人はどうでしょう。彼の自殺を許すのにかかりつけの医師からの許可証が本当に必要でしょうか。
    健康な老人が死を選べるとしたら、次にはそれほど高齢でない人の場合はどうでしょう。
    五十代の人は身投げをしてよいでしょうか。よくないとしたらその理由はなんでしょう。
    四十代の更年期の女性や、中年の多くのストレスを抱えた男性はどうでしょう。

    少し考えて見ると、自殺という決定的な事柄に年齢は何の関係もないことが分かります。うつ状態ではあっても健康な二十歳の学生が、治癒の見込みのない患者と同じように「尊厳ある死」を選ぶ権利があるということになってしまいます。

    もし安楽死が一部の人に合法化されたら、全面的合法化へのレールが敷かれたも同然です。年齢も、健康的要素も、クォリティ・オブ・ライフ(質の伴ったいのち)も条件とはなりえません。
    安楽死を積極的に押し進めているヘムロック協会という団体は、その事実をよく知っています。彼らは、全ての人には「死ぬ権利」があると強く主張しています。

    私 たちが今、まったく健全な胎児を切り刻んでごみ袋に捨てているなどと、1950年に誰が予想したでしょうか。四千万近い、いたいけな子供たちを母の胎から 引き裂くなどということを、誰が想像できたでしょう。最も弱い者たちにその様な非道を行った私たちが、どのようなグループの人たちをも殺すことができない と信じることができるでしょうか。

    歴史的に言って、安楽死という怪獣を招き入れてしまった国々は、大量虐殺という悪夢を実現してしまった のです。それこそ、ナチス・ドイツに起こったことです。そこではまず始めに病人と老人とを殺し、次に精神障害者、知的障害者、そして生まれつきの障害児を 殺害したのです。そこから「望ましくない者たち」すなわちユダヤ人、ポーランド人、ジプシー、生産活動に従事できない者、政治犯、同性愛者その他の人々を 殺害するまではほんの一歩でした。安楽死は絶滅収容所への最後の小さなステップでした。
    もしこのような狂気の虐殺が起こらなくても、「死ぬ権利」の合法化は毎年の自殺数を劇的に増すことは確実です。

    一 人一人の死は、残された者たちにとって、計り知れない悲嘆と罪責感と悲しみとを残します。死ぬ人にとって、自殺は安易な逃げ道に見えるかもしれませんが、 愛する者や多くの子供たちを含む親戚にとっては恐らく最も苦痛に満ちた経験です。どの観点から見ても引き出せる結論は同じです。しかし、カリフォルニア州 の第九連邦巡回控訴院は、家族計画協会対ケーシーの連邦最高裁の判決を引用しながら、安楽死を米国で合法化したのです。「神よ、われらを助けたまえ。」


    From ドクター ジェームス・ドブソンのQ&A

  • 子育てQ 子どもをしつける親が、最も犯しやすい過ちとは、どのようなものでしょうか。

    A .  私の見てきているところ、それは、親が怒りによって子どもをコントロールしようとすることだろうと思います。
    どんな年齢層を対象にしても、怒りで人を動かそうというのは最も非効率的な方法です。それなのに、多くの大人たちは子どもをしつけるのに、自分の感情的な言動に頼ろうとします。

    ある先生が、全国ネットのテレビ番組で言っていました。

    「教師であることには誇りを持っています。でも毎日子どもたちを教えるのは嫌で仕方がありません。生徒たちは全く言うことを聞かないので、教室の秩序を保つために、私は絶えず怒っていなければなりません。」

    明けても暮れても、嫌みで怒りっぽい先生を演じつ続けなければならないとは、何ともご苦労なことと言わねばなりません。

    しかし多くの先生方や親たちはそれ以外の指導の仕方を知らないのです。これは、疲れるやり方であり、そして効果がありません。自分自身がどういう風に人から動かされるかを考えてみたら分かり易いでしょう。

    今晩帰宅途中に60キロオーバーのスピード違反をしてしまったとしましょう。街角に警官が立っていますが、彼にはあなたを捕まえる方法がないとします。パ トカーも白バイも持っていません。肩章も拳銃も違反切符もありません。できることは、ただ街角に立ってスピード違反をしているあなたに向かってののしるこ とだけです。警官がこぶしを振り上げるのを見てあなたは減速するでしょうか?もちろんしません。そばを通り過ぎながら手を振って挨拶するかもしれません ね。怒ったからといって、警官は何もすることは出来ません。漫画のような話です。

    一方、バックミラーの中に黒と白の車が頭上に赤いランプ を回しながら近づいてくるのを見ることほど、スピード狂のドライバーをおとなしくさせるものはありません。路肩に停車すると、威厳があり、礼儀正しい警官 が運転席に近づいてきます。2メートルもあろうかという大男で、ローン・レンジャーの様な声をし、銃身をごく短く切った散弾銃を両腰に下げています。彼は 丁寧ながら毅然とした態度で、「お急ぎのところ恐縮ですが、レーダーよると制限速度40キロのところを、100キロで走っておられたようですね。免許証を 拝見します。」と言います。
    警官は革表紙の召喚状を開いてあなたの方に顔を寄せます。彼は敵意を表したり、非難をしたりはしないのに、あなたは即座に求めに応じます。まごまごしながら、気に入らない自分の写真のついた免許証を財布の中から取り出します。
    な ぜあなたの手は汗ばみ、口はカラカラなのでしょう。どうして心臓は喉から飛び出しそうなほど脈打っているのでしょう。それは、警官がしようとしている手続 きが不愉快極まりないからです。あなたのこれからの運転癖を劇的に変えてしまうのは、警官のこの一連の行動なのです。怒りではなく、懲らしめの行いが行動 を直すのです。

    実は、大人の怒りは子どもの心に破壊的な軽蔑心を引き起こすと私は信じます。子どもには、私たちの怒りは、事態をどうに も出来ない無能さと映るのです。正しいことを教えようとするのですが、効果がないのでやたらと手を振り回し、涙を流さんばかりにして実行もしない脅迫を繰 り返すのです。
    お聞きしますが、あなたご自身はそんな風に感情的な方法で法律を守らせようとする裁判官がいたとしたら、尊敬なさるでしょうか。答えを待つまでもありません。ですから、法律の世界は意図的に、客観的で、合理的で、威厳に満ちたものとされているのです。

    私は、親たちや先生方が正当な感情を子どもたちから隠すようにと言っているのではありません。あるいは、全てをうちにしまい込んだ、応答をしない、面白味 のない、ロボットの様な人間になれと言っているのでもありません。子どもたちが侮辱的な態度を取ったり、不従順になることはありますし、私どもがいら立つ のは、無理のない場合はあります。そういう場合は、むしろ怒りを表現するべきです。そうでなければ、偽善者でしょう。

    私のポイントは、怒りがしばしば子どもたちの、行儀を直すための道具として意識的に使われるということです。しかしこれは効果がないばかりか、子どもの信頼を失うことにもなるのです。


    ドクター ジェームス・ドブソンのQ&Aから