電道(E-vangelism)

巧妙に ― 蛇のように聡く…

投稿者: Administrator on . Posted in 電道 E-vangelism

星を無効星を無効星を無効星を無効星を無効
 

2.1 中立的、けれども全く戦闘的でなくはない

ウェブページのタイトル、見出し、インデックスなどに、説教的な見出し、タイトル、リンク、画像は避けてください。いかにも、キリスト教といった組織名(例え ば、"キリストの救いミニストリー"、"第一バプテスト教会")などをページの頭につけることも避けてください。もし、あなたが組織名をどうしても載せた い場合、中立的な名称を選んで付けてください。キリスト教的な絵(聖書、十字架、鳩、ステンドグラス他)も避けてください。使いたい気持ちは解りますが、 未信者にとって、居心地が悪くなるようなものは避けるべきです。実際、求めている人たちには、価値のあるものですが、私たちは限られたキリスト教に興味の ある人たちよりも、もっと広範囲の人たち(まったくキリスト教について知らない人たち)に届いていきたいのです。ですから、マウスをクリックすることで、 簡単に彼らがあなたのウェブページから出て行ってしまうようなことは極力避けたいのです。

キリスト教的な ウェブページが増えるほど、伝えたい人たち(キリストや真実をまったくしらない人たち)に伝わりにくくなるのです。第8章で定義した、一般的な興味に対す るもの、一般的な事に対するクリスチャンの物の見方、証(あかし)のページがタイトル、見出し、絵、言葉遣いなどで、いかにもキリスト教的なものを使わな いように呼びかけたいのです。新聞のように、すべてが初めのタイトルや見出しで解ってしまうようなものは避けて欲しいのです。

伝道ウェブページでは、クリスチャンのみが興味をもつような問題(聖書の訳の違い、教派による教義の違いなど)を取り扱うことは避けてください。そのような ことは、彼らがクリスチャンになってからで十分です。もちろん、クリスチャン向けのウェブページを通してキリストに出会った例もあります。けれども、それ に該当しない人たちの方が遥かに多いのです。ですから、伝道ウェブページでは、未信者向けにデザインしたものを作成してください。

2.2 どこで未信者と交わることが出来るか

未信者たちのいるところへ出て行くことが必要です。これが、彼らに伝道する秘訣です。私たちの伝道ウェブページでは、どんな人たちがどんなウェブページに興味があるのかを研究し、彼らが使うような言葉を使用(または引用)しています。

"ユダヤ人には、ユダヤ人のようになりました。それは、ユダヤ人を獲得するためです。律法の下にいる人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下に いる者のようになりました。それは、律法の下にいる人々を獲得するためです。律法を持たない人々には、―私は神の律法の外にある者ではなく、キリストの律 法を守る者ですが―律法の下にいる者のようになりました。それは、律法を持たない人々を獲得するためです。弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を 獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、なんとかして、幾人かでも救うためです。わたしはすべてのことを福音のためにしてい ます。それは、わたしも福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。" 第一コリント9:20~23

漫画の影響力を利用しましょう。漫画 などのメディアを使った伝道に関するトレーニング・コースもアメリカではすでに始まっています。また、日本では、子供に限らず、大人にも漫画は人気があり ます。1年間に20億もの漫画が売れているのです。ロシアでは、190の教会が過去5年間にSuperBook(TVの漫画シリーズ)の影響によってでき ました。実に、100万人がそのテレビ番組に対して手紙を出したのです。もし、日本でそんな漫画シリーズが放映されたらどうでしょうか?漫画の影響力は軽 視できません。インターネット上の漫画(動画、音声入り)も作れるのです。イギリスで作られたPrivate Eye を参照して見て下さい。とてもよくできています(世俗的なものです)。CartoonworksのRon Weelerは、漫画のユーモアを通すと、人々は警戒を解除し、福音的なメッセージを受け入れやすいと語っています。Cartoonworksでは、クリ スチャン的な漫画、グラフィックスを無料で製作しています。(有料の3Dクリップ・アートも売っています。)また、インターネット上での福音的なメッセー ジを含んだ漫画も提供しています。

参考ウェブページ(英語)

ROX35 Media 漫画の資料

数年前に、有名なクリスチャンのラジオ局が賛美歌、祈り、説教をもとにしたラジオ番組製作しました。けれども、クリスチャンやクリスチャン的な環境で育った 人にしか聞いてもらえないことに気づき、教会関係者以外にも聞いてもらえるような番組に作り変えました。その直後に、視聴者からの手紙が、"対して問題も ないような教会に通っているいい人"からの手紙から、"大変な問題を抱えている、切羽詰った人" からの手紙に取って代わるようになりました。開拓伝道者C.T.Studdは、私たちクリスチャンが、福音を聞く必要のある人のところに出て行くべきだと いうことを、このような詩で表現しています。

"誰かは教会の音楽や鐘を聴きながら、生活することを望むかもしれないけど、 わたしは、地獄の庭先で人々をそこから救い出す生活するほうを望む。"

この世に存在する宗教に対して雑誌を通したミニストリーがあります。彼らがミニストリーを開始する前に、時間とお金を費やして市場を研究し、その宗教の指導 者たちの教えや興味を探りました。そして、その教えや興味を元にして雑誌を編集し、デザインもその地域の世俗的な雑誌に合わせました。

イギリスでは、Railway Missionが鉄道会社職員向けの新聞を提供しています。表向きは、鉄道に関するものですが、中身は伝道的なものです。このことを応用して、主の導きに まかせて、あなたの興味あることを対象にしたウェブページ作成を試みてはいかがでしょうか?

日本の教会では、よくバザーをやり、難なく近所の人との交流を図っています。市川にある教会では、1960年代に亡くなった有名なカーレーサーの車の遺族が礼拝に参加 し、昼食を共にした人達に限り、日曜日の午後にその車を見せることを手掛けています。そのカーレーサーのファンクラブが年に一度その教会で集まるそうで す。その会は、故人の母親が、祈り、証をする事によって始まるそうです。ファンクラブの何人かはそのことを通して信仰を持つようになりました。

スポンサーサイト:

有限会社アムス
新しい経営の方法を創造し、ITと語学のサービスを提供する有限会社アムス

良くある質問と答え

  • 子育て

    Q 家族のことを考えたら、忙しすぎることがよくないことは分かります。でも、私たちの教会は平日もほとんど毎晩何かの活動をしています。夫も私もそのうちの 多くの働きのリーダーシップを取るように頼まれたり、または期待されます。 正直に言って、牧師から依頼されたことを断わると、罪意識を覚えます。結果的に、家族の時間はなくなってしまいます。この矛盾をどうしたら解決できるで しょう。

    A そのジレンマは私にも分かります。私ども夫婦も、結婚して最初の10年間は同じ葛藤を経験しました。
    まだ若かった私は、当時教会から頼まれることは何でも引き受ける義務があるかのように感じました。教会学校の校長、成人クラスの教師、教会の役員などを務 め、その他、何か特別な必要がある時は何でも引き受けていました。妻も、子供聖歌隊の指導、婦人会の役員など教会活動に深く関わっていました。私は博士過 程の最終段階にあり、仕事面での責任も膨大でした。息もつけない状態で、家には私と遊びたい盛りの娘がいるのに、ある時は17日間も夜の会合が続いたこと を思い出します。

    それ自体は重要な仕事であっても、それを引き受けるには判断力と常識とを働かせるようにと、主は私に望んでおられることが少しずつ分かってきました。一人 の人間ができることには当然限界があります。クリスチャンとしての義務、仕事、レクリエーション、社会的責任そして意味ある家庭生活などをバランスよく計 画する必要があることが分かりました。この問題を整理するのに役立った聖書のことばは以下の二つです。

    第一は、マタイの福音書14章13~14節にあります。「イエスはこのこと(バプテスマのヨハネの死)を聞かれると、舟でそこを去り、自分だけで寂しい所 に行かれた。すると、群衆がそれと聞いて、町々から、歩いてイエスのあとを追った。イエスは舟から上がられると、多くの群衆を見られ、彼らを深くあわれん で、彼らの病気を直された。」

    この時、イエスはいとこであり友であるバプテスマのヨハネの死をいたみ悲しんでいたに違いありません。「自分だけで寂しい所に」行く必要があったのです。 それでも群衆は主の居場所を知り、いやしの御手を求めて来たのです。喪中であっても、イエスは人々をあわれみ、その必要を満たされました。このことから私 の出した結論は、私たちも困難や不都合にめげず自分を犠牲にするべき時があるということです。また別の時には何千もの人々がいやしを求めてイエスに押し寄 せました。みことばを語られた後、主は弟子たちと舟に乗り込み、その場を去りました。マルコの福音書4章36節によれば「弟子たちは、群衆をあとに残し、 舟にのっておられるままで、イエスをお連れした。」疑いなく、その日の群衆には癌、盲目、身体の障害、その他あらゆる不幸を背負った人々がいたはずです。 主は彼らすべてをいやすために徹夜することもできたでしょうが、明らかに体力の限界に達して、休む必要を感じたのです。主と弟子たちが湖にこぎ出したと き、病人たちを岸辺に置き去りにしたのです。似たような出来事がマタイの福音書14章23節にも記されています。「群衆を帰したあとで、祈るために、ひと りで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。」自分を与えるべき時もあれば、なすべき大切な仕事はあっても、一人になり、祈り、日 常の雑事から逃れるべき時があります。

    イエスのしたような休憩とリフレッシュの時を確保しない人は、やりたいこともうまく進まないようになります。例えて言うなら、庭のスプリンクラーの蛇口を 多く作りすぎたようなものです。どの蛇口からも不十分な水量しか出ません。もうひとつの例をあげましょう。ぶどうを栽培する人は、枯れ枝を刈り込むだけで はなく、実のなる枝さえいくらかは刈り取ることをご存じですか。収穫量をいくらか犠牲にしても、質の良いぶどうを得ようとするのです。同じように、私たち も休みなく動き回ることをやめて、働きの全体的な質を良くするようにすべきです。

    他にもうひとつ、気をつけるべきことがあります。バランスを維持すべきだといって、教会内での責任を避ける言い訳にするべきではありません。牧師たちは 「大部分の奉仕がほんの数人の肩に負わされ、他の人は何もしようとしない。」と嘆きます。これでは困ります。ひとつの極端から、反対の極端に飛躍しないよ うに、常識を働かせましょう。

    From ドクター ジェームス・ドブソンのQ&A

  • Q. イエスキリストは、どんな方ですか?

    A. イスラエルのベツレヘムという小さな田舎 町で、処女マリヤより降誕された救い主です。(西暦は、このイエス・キリストが生まれてから何年であるかを表しています。)この方は、人として生まれて来 られましたが、神の御子でした。人類すべての罪の身代わりとして、十字架にかかるために来られたのです。人はみな生きるために生まれてきますが、この方だ けは、死ぬために生まれて来られました。それは、彼の死によって、すべての人が罪のゆるしと永遠のいのちの救いに到るためだったのです。聖書全巻が預言し 啓示して来たのは、この方のことでした。
  • 毎週日曜日に教会で行われている礼拝は、神様を拝む集いです。ゴスペルハウスでは、ゴスペル・ワーシップというジャンルの音楽をピアノやギターなどと共に 歌います。また、聖書が朗読され、その箇所が告げている神様からのメッセージを伝える説教が語られ、祈りがなされる、ということを通して、生きて働いてお られる神様との出会いの時を持つのです。最初は、説教という講演を中心とする講演会のような印象を持つかもしれませんが、出席しているうちに、講演会では ない、神様を拝む礼拝の意味が分かってくると思います。
  • Q. プロテスタントとカトリックは、どう違うのですか?キリスト教の 派閥ですか。一致することはないのですか。

    A. 宗教改革以後、教会はローマカトリック教会と、ルター派、及び無数のプロテスタント諸教派とに分裂し、それぞれの伝統を形成し今日にまで至っていま す。(もう少し正確な説明が必要ですが、今日は省略しておきます。)いかに真理のためとは言え、本来一つであるはずのキリストの体なる教会が事実上、分断 されているのは、決して本来的ではなく、教会は一つのものであると信じられるべきです。このような中で、20世紀からエキュメニカル(教会一致)運動が起 こり始め、教派の壁を超えた対話や協力関係の模索が続けられています。また1999年にはカトリック教会とルター派との間で「義認の教理に関する共同宣 言」が交わされ、大きな前進を見せています。