テントメーカー(tentmakers)

なぜパウロは天幕を作ったのか?Part 2

投稿者: Administrator on . Posted in テントメーカー Tentmaker

星を無効星を無効星を無効星を無効星を無効
 

どんな働きがなされたのか?

ダンはアラブの大学で言語学を教えながらまだ聖書をまったく読んだことの無い500万人のイスラム教徒が使う言語に新約聖書を翻訳していました。彼は自国で 住む事が出来なかったので、何千という外国からの人々が働く国に就職することを決めたのです。

エンジニアであるジムは、クリスチャンが公に集まることを制限されたアラブの国で、10の家々で牧会する平信徒の牧会者を導いていました。彼は彼らがその週の説教を準備するのを導き、いっしょに祈っていたのです。

高校の科学の先生であるケンは、アフリカのある村の教会に毎月第3日曜日に招かれて説教をしていました。インドのヒンズー教の文化と宗教の学校を卒業したド ンは、地域教会で働き、近くの神学校で教鞭をとっていました。大学の英語講師のグレッグは、中東でクリスチャンの出版会社を設立する手伝いをしました。メ アリーは文章を教えながら地域のクリスチャンが東アジアで小説を書く手助けをしました。高校教師のノラは、アフリカのクリスチャンラジオ局で、台本の執筆 と番組制作をしました。南部ヨーロッパの交響楽団でプロのバイオリニストをしていたナンは、地域教会の音楽の発展に貢献しました。中国の英語教師達は近く の孤児院で時間を割き世話をしました。多くの教育者は彼らの働く大学や学校でキャンパス・ミニストリーを導いています。何人かのテントメーカー達はビジネ スマンに、また女性達に、子供に、スラムの人々に、また囚人に対する働きをしています。健康診断や家庭問題を扱っている人も多くいます。テントメーカー は、多くの働きの中に専門知識生かすことが出来るのです。新しい働きを始め、あなたがそこを去らなければならないときにはその地域の人々が続けられる様に 訓練をする、というのが理想です。

テントメーカーの第1の働きは職場での 伝道です。彼らの非宗教的な立場(または勉学のプログラム)は彼らの第1の目標である伝道から時間を奪うようなものではありません。これらのものは神が与 えた伝道のための必要な舞台なのです。何も無い場所での伝道が多くを生み出すことはめったにありません。

ゆっくりした漁師伝道は霊的に反抗的な国において最も適切です。クリスチャンは彼らの周りにいる無関心な人々、反抗的態度を持つ人の中から求道者を釣るために えさを使います。彼らは魅力的で、信仰的で、さばかない態度を持って福音を生きるのです。彼らは苦しみの中にあるときにも神を知る喜びと希望を生活の中に 実行するのです。彼らは綿密な調査の元で個人的な誠実さ、質の高い仕事を実行し、愛のある関係を広げていくのです。彼らは完璧ではないので、すぐに謝り、 彼らもまだ神を喜ばせることにおいて勉強中であることを認めるのです。

彼らのライフスタイルはえさの一部です。しかし言葉なしの模範的な生活は人々を混乱させます。彼らの口から証しをしなければなりません。友達関係、愛のある 人間関係を作ったあとで、テントメーカーは非宗教的な会話の中に機転を効かせて適切な神に関する言葉を織り込みます。彼らはみんなが同意するような気軽 な、自然なやり方で会話の中に小さな霊的爆弾を落とすことを覚えていきます。彼らの生活と言葉は霊的に渇いた人の食いつきを引き起こします。求道者は質問 をしてくるのです。

漁師伝道は構成され、マニュアル化されたような活動で はありません。人々と自然な形で関わりを持つことです。私達は質問をしてくる人に向かって福音を説明することに喜びを見出します。求道者のプライバシーに 侵入しているわけでも、不便な時間に彼らを煩わしているのでもないことを知っているのですから。最初に会話を始める質問をして会話をリードするのは求道者 のほうなのです。私達はしばしばあまりにも早く、あまりにも多くのことを言いすぎてしまいます。彼らの質問が彼らに言うべきことを私達に教えてくれます。 それらの質問はは彼らの内側の必要、心の傷、離婚、信仰に対する葛藤や、どの真理が彼らにかけているか、誤解しているのかなどを教えてくれるのです。

パウロもペテロも、求道者から正しい質問を引き起こし、それに答える準備をしておくというタイプの伝道について説明しています。この使徒たちは2人とも職場 ということを考えの中にいれていました。(コロサイ4.5.6、Ⅰペテロ3:14-16)もし誰も質問しないとするなら、それはそのクリスチャンの話すこ とや振る舞いが、神を知る価値はないと周りの人に感じさせたことを意味します。えさが無いのです。しかしすべての魚には適切な種類のえさがあって、それら のえさは求道者の最も深い願い事に届くのです。

クリスチャンは決して質問 を恐れる必要はありません。難しい質問でもです。私達は学ぶ人として伝道するべきなのです。権威者としてではなく。私達はこう言うことが出来ます。「明日 までにそれを考えさせてください。はっきり答えることが出きるように。」求道者の質問はまた、御言葉を開く機会を与えてくれます。テントメーカーはこうい うことが出来ます。「私は信仰についてまだ勉強中です。でもこのことに関してイエス様ご自身がどのように言っておられるか見て見ませんか。」そして小さな 新約聖書を出して適切な箇所から5分間の聖書研究をするのです。

このアプローチは職場やキャンパスにおいて理想的です。同じ人々と毎日会うときは、神についての最初の会話によって、それに続く会話のドアが閉じてしまってはいけません。ゴールは、人々が準備が出来たときに、もっと多くを知るために質問を続けることなのです。

このアプローチは霊的に反抗的な国々において理想的です。テントメーカーは、他の人の反感を引き起こすことなく求道者を釣ることが出来ます。個人的な会話は 仕事外の時間にもすることができるようになります。これらの会話は伝道的な聖書研究会に発展し、そして弟子訓練聖書研究会へ、そして家庭集会になっていく でしょう。これらは教会開拓の理想的な形です。

テントメーカーはチームを なして働きます。テントメーカーは決して1人だけで働くべきではなく、交わりと同じ働きをするグループの中で働くべきです。彼らは家で祈ることによって友 達や教会と協力します。彼らが行く新しい宣教地では、テントメーカーのチームや、国際教会と、協力したり、テントメーカーを送り出す団体のメンバーとし て、あるいは通常の宣教団体のメンバーとして働きます。もし言語や文化の問題で現地の人を悩ますような教会でなければ、外国人教会もいいでしょう。

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良くある質問と答え

  • 悔い改めてイエスの死と復活に預かるバプテスマを受けたものは、精霊を神の賜物として受けた、と上に書きました。 バプテスマは、言わば神と礼拝者が契約を交わす結婚式のようなものです。人はイエスを主と信じ、救い主として信じて、イエスの名によってバプテスマを受け るのです。 神がこれを認めてその人と契約を結ぶのです。その契約の証印が聖霊なのです(エペソ1:13)。 サルこれらのユダヤ人たちは、42節で述べられているように、 クリスチャンとして3つの重要なことを行なっていました。(1)使徒たちの教え(つまりイエスの教え)を忠実に守ることです。 教会の人々は、イエスに忠実に従う人々です。主の契約に預かる人は神の教えを学び、日々その教えに従って生きていきます。 (2)神に祈ることです。天地万物を創造した神がすべてを支配していることを信じ、その神の栄光が輝き、神の教えが教会内で実践され、またより多くの人々 が神を知るように祈るのです。 (3)パンを裂くとは、主の晩餐を受けることを指しています。主の晩餐はバプテスマと同様に非常に重要なので、しっかりと理解しておきましょう。 主の晩餐はイエスによって制定されました。 ぶどう

    22:14 さて時間になって、イエスは食卓に着かれ、使徒たちもイエスといっしょに席に着いた。22:15 イエスは言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。22:16 あなたがたに言いますが、過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません。」22:17 そしてイエスは、杯を取り、感謝をささげて後、言われた。「これを取って、互いに分けて飲みなさい。22:18 あなたがたに言いますが、今から、神の国が来る時までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」22:19 それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚え てこれを行ないなさい。」22:20 食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。(ルカの福音書22:14-20)

    イ エスの死を覚え、イエスの復活を覚える機会が、主の晩餐によって与えられています。クリスチャンは、主の晩餐のパンを受ける時、教会をイエスのからだ(こ の概念は次に説明します)として覚え、教会内での人間関係を吟味します。また、晩餐のぶどうの実のジュースを飲む時、 クリスチャンは神の救いの業と慈悲を思い起こし、神との契約を新たなる心を持って受けます。そして、主の晩餐は主イエス・キリストが復活された週の初めの 日(日曜日)に、主の復活を覚えてクリスチャンが受けられるものです。このように、教会とは罪ある者が悔い改め、イエスの名によるバプテスマをうけて神の 子供とされる人々の集まりです。そして、聖霊で満たされたクリスチャンたちが、神を唯一の神とあがめ、神の国民とされた人たちの集まりが教会です。そこに は神の御国、神の支配、神の権威があるのです。神の権威がなければ、教会自体に権威はありません。ですから、人間によって作られた伝統や規則などはない、 人々の集まりが教会なのです。もし規則、決まりがあるとすれば、神が制定したものだけです。
  • 「キリストのからだとは、教会のことです」(コロサイ1:25) とありますように、教会はからだにたとえられます。では教会の姿を次の聖句を読んで考えてみましょう。

    12:14 確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。12:15 たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。12:16 たとい、耳が、「私は目ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。12:17 もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。12:18 しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。12:19 もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。12:20 しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。12:21 そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うこともでき ません。12:22 それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。12:23 また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうに なりますが、12:24 かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。12:25 それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。12:26 もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。12:27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。(1コリント12:14-27)この聖句は人間のからだにたとえて教会の姿を言い 表しています。

    つまり、教会員のひとりひとりが重要な器官の役目を果たしており、どんなに小さな役目であっても、教会には必要な役目なの です。世の中では、偉い人や重要なポストに就いている人を重視します。しかし、「それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなく てはならないものなのです」 と書かれてあるように、教会においては重要でないと思われる人こそ必要なのです。そして、キリストのからだは、キリストにあって、同じ考え方、同じ心の持 ち方、同じ態度を持っているのです。さらに、重要な事は「もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての 部分がともに喜ぶのです」と書かれているように、苦しみと喜びを分かち合う人々の集まりだという事です。これは、イエス自身によって次の様に教えられまし た。

    13:34 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合い なさい。13:35 もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(ヨハネ 13:34-35)

    イエスの愛が教会の人々の中に宿ります。 それゆえにクリスチャンはイエスが愛したように愛しなさいという命令を受けるのです。お互いに愛するとは、お互いに「深い同情心、慈愛、慈愛、謙遜、柔 和、寛容を身に着け、互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合い、主が赦してくださったように、赦しあう」ことです (コロサイ3:12-13)
  • Q 50代を過ぎると性欲が減退するのは避けられないことですか。

    A  年を重ねるにつれて欲求がなくなるという器質的な理由は何もありません。
    肉体的な年齢よりは、性欲の場合、心の持ち方と情緒的な条件により左右されます。夫と妻が自分を年老いて魅力がないと考えるなら、年齢よりも、二次的な理由からお互いに対する関心を失います。
    しかし、肉体的な観点からは更年期の男女が性的に無関心になるという根拠はありません。


    ドクター ジェームス・ドブソンのQ&Aから
  • Q. クリスチャンになったらお酒やタバコは、やめなくてはいけない?

    A. クリスチャンになることは、「キリストへの信仰によって、罪のゆるしと永遠のいのちを受ける」という人間にとっての根本的な問題ですが、お酒やたばこ、パチンコなどは、その人の生活倫理や道徳の問題です。
    根 本的な生き方に、キリストによる新しい価値観と力を得るならば、その人の倫理や道徳も変えられていくことは事実ですが、お酒やたばこを止めることがクリス チャンになる条件ではありません。また、教会に行き始めたとたんに、すぐにそれらが無くなるわけでもないでしょう。それは、あなたがクリスチャンになった 後で、「心から止めたくなるかどうか」にかかっていることです。
    神は、あなたが願いを持つならば、不思議な力を与えてくださる方です。