クリスチャン信仰についての質問と答え

ハレルヤは、どういう意味ですか?

投稿者: Administrator on . Posted in クリスチャンの信仰について

星を無効星を無効星を無効星を無効星を無効
 
Q. ハレルヤは、どういう意味ですか?

A. ハレルヤは「神を賛美します!」という意味です。世界中のクリスチャンの共通語です。クリスチャンは、いろんな時に「ハレルヤ!」と告白して神を崇めます。

スポンサーサイト:

良くある質問と答え

  • Q. 神はどんな方?どうやって知ることが出来る?

    A. ほんとうの神は、人間が木や石で作ったものではありません。人格を持たれる生きた方です。聖書は、まことの神は
    (1)天地万物の創造者
    (2)目に見えない霊なる存在者
    (3)罪を憎まれる聖い神
    (4)愛なる神
    であると語っています。この神が、罪人である私たちを罪から救い出し、永遠のいのちと豊かな人生を与えるために、イエス・キリストを十字架につけて私たちの救いの道をつくってくださったのです。
    誰でも、自分の罪を告白して悔い改め、イエス・キリストを救い主として信じるなら、この神のゆるしと限りない素晴らしい永遠の愛を受けとることが出来ます。
    神を知る道は、聖書のみことばと心からのキリストへの信仰です。神を知るための修行や訓練、功績は必要ありません。
  • キリスト教は二千年の歴史の中で、いくつかの流れに枝分かれしてきました。それを「教派」と言います。プロテスタントは、16世紀の「宗教改革」におい て、当時のローマ・カトリック教会から分かれた流れです。プロテスタントの中にもさらにいろいろな教派があります。教派の違いは、礼拝の仕方、教会の運営 の仕方、信仰における強調点の違いですが、キリスト教会の信仰の根本的規範は聖書であり、それに基づく信仰を言い表した古代の「信条」です。そこにおいて は基本的に一致しているので、このごろは、カトリックとプロテスタントが共同で訳した「新共同訳聖書」が生まれるなど、協力関係も進みつつあります。
  • 「キリストのからだとは、教会のことです」(コロサイ1:25) とありますように、教会はからだにたとえられます。では教会の姿を次の聖句を読んで考えてみましょう。

    12:14 確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。12:15 たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。12:16 たとい、耳が、「私は目ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。12:17 もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。12:18 しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。12:19 もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。12:20 しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。12:21 そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うこともでき ません。12:22 それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。12:23 また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうに なりますが、12:24 かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。12:25 それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。12:26 もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。12:27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。(1コリント12:14-27)この聖句は人間のからだにたとえて教会の姿を言い 表しています。

    つまり、教会員のひとりひとりが重要な器官の役目を果たしており、どんなに小さな役目であっても、教会には必要な役目なの です。世の中では、偉い人や重要なポストに就いている人を重視します。しかし、「それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなく てはならないものなのです」 と書かれてあるように、教会においては重要でないと思われる人こそ必要なのです。そして、キリストのからだは、キリストにあって、同じ考え方、同じ心の持 ち方、同じ態度を持っているのです。さらに、重要な事は「もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての 部分がともに喜ぶのです」と書かれているように、苦しみと喜びを分かち合う人々の集まりだという事です。これは、イエス自身によって次の様に教えられまし た。

    13:34 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合い なさい。13:35 もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(ヨハネ 13:34-35)

    イエスの愛が教会の人々の中に宿ります。 それゆえにクリスチャンはイエスが愛したように愛しなさいという命令を受けるのです。お互いに愛するとは、お互いに「深い同情心、慈愛、慈愛、謙遜、柔 和、寛容を身に着け、互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合い、主が赦してくださったように、赦しあう」ことです (コロサイ3:12-13)
  • Q 博士は「健全な夫婦は喧嘩の仕方を知っている」とおっしゃいますがそれはどういう意味ですか。
    A 私の言いたいのは、フェアな争いの仕方を学ぶ必要があるということです。結婚生活では健全な争いもあれば不健全な争いもあります。不安定な家庭では、ののしりの言葉が相手のもっとも弱い所に向けて投げつけられます。
    「あなたって何一つまともにできないわね。」
    「そもそもおまえと一緒になったのが間違いの元だった。」
    「おまえ、ますます母親に似てきたよ。」こういう攻撃的な言葉は、あなたの伴侶の自尊心の中核を傷つけます。
    反対に、健全な争いは不一致をもたらした問題点に焦点を当てます。例えば、「夕食に間に合わない時には連絡してくれないと困るわ。」あるいは、「夕べのパーティーであんなふうに言われちゃ、まるで僕が馬鹿に見えるじゃないか。」という具合です。
    違いが分かりますか。前者は相手の尊厳を傷つけ、後者は摩擦の元になった問題を追及しているのです。この大切な違いを夫婦が学びとるなら、互いを傷つけたりおとしめたりせずに不一致を解決していくことができるのです。


    ドクター ジェームス・ドブソンのQ&Aから