家族全般についての質問と答え

忙しすぎることがよくない

投稿者: Administrator on . Posted in 家族全般について

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子育て

Q 家族のことを考えたら、忙しすぎることがよくないことは分かります。でも、私たちの教会は平日もほとんど毎晩何かの活動をしています。夫も私もそのうちの 多くの働きのリーダーシップを取るように頼まれたり、または期待されます。 正直に言って、牧師から依頼されたことを断わると、罪意識を覚えます。結果的に、家族の時間はなくなってしまいます。この矛盾をどうしたら解決できるで しょう。

A そのジレンマは私にも分かります。私ども夫婦も、結婚して最初の10年間は同じ葛藤を経験しました。
まだ若かった私は、当時教会から頼まれることは何でも引き受ける義務があるかのように感じました。教会学校の校長、成人クラスの教師、教会の役員などを務 め、その他、何か特別な必要がある時は何でも引き受けていました。妻も、子供聖歌隊の指導、婦人会の役員など教会活動に深く関わっていました。私は博士過 程の最終段階にあり、仕事面での責任も膨大でした。息もつけない状態で、家には私と遊びたい盛りの娘がいるのに、ある時は17日間も夜の会合が続いたこと を思い出します。

それ自体は重要な仕事であっても、それを引き受けるには判断力と常識とを働かせるようにと、主は私に望んでおられることが少しずつ分かってきました。一人 の人間ができることには当然限界があります。クリスチャンとしての義務、仕事、レクリエーション、社会的責任そして意味ある家庭生活などをバランスよく計 画する必要があることが分かりました。この問題を整理するのに役立った聖書のことばは以下の二つです。

第一は、マタイの福音書14章13~14節にあります。「イエスはこのこと(バプテスマのヨハネの死)を聞かれると、舟でそこを去り、自分だけで寂しい所 に行かれた。すると、群衆がそれと聞いて、町々から、歩いてイエスのあとを追った。イエスは舟から上がられると、多くの群衆を見られ、彼らを深くあわれん で、彼らの病気を直された。」

この時、イエスはいとこであり友であるバプテスマのヨハネの死をいたみ悲しんでいたに違いありません。「自分だけで寂しい所に」行く必要があったのです。 それでも群衆は主の居場所を知り、いやしの御手を求めて来たのです。喪中であっても、イエスは人々をあわれみ、その必要を満たされました。このことから私 の出した結論は、私たちも困難や不都合にめげず自分を犠牲にするべき時があるということです。また別の時には何千もの人々がいやしを求めてイエスに押し寄 せました。みことばを語られた後、主は弟子たちと舟に乗り込み、その場を去りました。マルコの福音書4章36節によれば「弟子たちは、群衆をあとに残し、 舟にのっておられるままで、イエスをお連れした。」疑いなく、その日の群衆には癌、盲目、身体の障害、その他あらゆる不幸を背負った人々がいたはずです。 主は彼らすべてをいやすために徹夜することもできたでしょうが、明らかに体力の限界に達して、休む必要を感じたのです。主と弟子たちが湖にこぎ出したと き、病人たちを岸辺に置き去りにしたのです。似たような出来事がマタイの福音書14章23節にも記されています。「群衆を帰したあとで、祈るために、ひと りで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。」自分を与えるべき時もあれば、なすべき大切な仕事はあっても、一人になり、祈り、日 常の雑事から逃れるべき時があります。

イエスのしたような休憩とリフレッシュの時を確保しない人は、やりたいこともうまく進まないようになります。例えて言うなら、庭のスプリンクラーの蛇口を 多く作りすぎたようなものです。どの蛇口からも不十分な水量しか出ません。もうひとつの例をあげましょう。ぶどうを栽培する人は、枯れ枝を刈り込むだけで はなく、実のなる枝さえいくらかは刈り取ることをご存じですか。収穫量をいくらか犠牲にしても、質の良いぶどうを得ようとするのです。同じように、私たち も休みなく動き回ることをやめて、働きの全体的な質を良くするようにすべきです。

他にもうひとつ、気をつけるべきことがあります。バランスを維持すべきだといって、教会内での責任を避ける言い訳にするべきではありません。牧師たちは 「大部分の奉仕がほんの数人の肩に負わされ、他の人は何もしようとしない。」と嘆きます。これでは困ります。ひとつの極端から、反対の極端に飛躍しないよ うに、常識を働かせましょう。

From ドクター ジェームス・ドブソンのQ&A

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良くある質問と答え

  • 子育て

    Q 家族のことを考えたら、忙しすぎることがよくないことは分かります。でも、私たちの教会は平日もほとんど毎晩何かの活動をしています。夫も私もそのうちの 多くの働きのリーダーシップを取るように頼まれたり、または期待されます。 正直に言って、牧師から依頼されたことを断わると、罪意識を覚えます。結果的に、家族の時間はなくなってしまいます。この矛盾をどうしたら解決できるで しょう。

    A そのジレンマは私にも分かります。私ども夫婦も、結婚して最初の10年間は同じ葛藤を経験しました。
    まだ若かった私は、当時教会から頼まれることは何でも引き受ける義務があるかのように感じました。教会学校の校長、成人クラスの教師、教会の役員などを務 め、その他、何か特別な必要がある時は何でも引き受けていました。妻も、子供聖歌隊の指導、婦人会の役員など教会活動に深く関わっていました。私は博士過 程の最終段階にあり、仕事面での責任も膨大でした。息もつけない状態で、家には私と遊びたい盛りの娘がいるのに、ある時は17日間も夜の会合が続いたこと を思い出します。

    それ自体は重要な仕事であっても、それを引き受けるには判断力と常識とを働かせるようにと、主は私に望んでおられることが少しずつ分かってきました。一人 の人間ができることには当然限界があります。クリスチャンとしての義務、仕事、レクリエーション、社会的責任そして意味ある家庭生活などをバランスよく計 画する必要があることが分かりました。この問題を整理するのに役立った聖書のことばは以下の二つです。

    第一は、マタイの福音書14章13~14節にあります。「イエスはこのこと(バプテスマのヨハネの死)を聞かれると、舟でそこを去り、自分だけで寂しい所 に行かれた。すると、群衆がそれと聞いて、町々から、歩いてイエスのあとを追った。イエスは舟から上がられると、多くの群衆を見られ、彼らを深くあわれん で、彼らの病気を直された。」

    この時、イエスはいとこであり友であるバプテスマのヨハネの死をいたみ悲しんでいたに違いありません。「自分だけで寂しい所に」行く必要があったのです。 それでも群衆は主の居場所を知り、いやしの御手を求めて来たのです。喪中であっても、イエスは人々をあわれみ、その必要を満たされました。このことから私 の出した結論は、私たちも困難や不都合にめげず自分を犠牲にするべき時があるということです。また別の時には何千もの人々がいやしを求めてイエスに押し寄 せました。みことばを語られた後、主は弟子たちと舟に乗り込み、その場を去りました。マルコの福音書4章36節によれば「弟子たちは、群衆をあとに残し、 舟にのっておられるままで、イエスをお連れした。」疑いなく、その日の群衆には癌、盲目、身体の障害、その他あらゆる不幸を背負った人々がいたはずです。 主は彼らすべてをいやすために徹夜することもできたでしょうが、明らかに体力の限界に達して、休む必要を感じたのです。主と弟子たちが湖にこぎ出したと き、病人たちを岸辺に置き去りにしたのです。似たような出来事がマタイの福音書14章23節にも記されています。「群衆を帰したあとで、祈るために、ひと りで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。」自分を与えるべき時もあれば、なすべき大切な仕事はあっても、一人になり、祈り、日 常の雑事から逃れるべき時があります。

    イエスのしたような休憩とリフレッシュの時を確保しない人は、やりたいこともうまく進まないようになります。例えて言うなら、庭のスプリンクラーの蛇口を 多く作りすぎたようなものです。どの蛇口からも不十分な水量しか出ません。もうひとつの例をあげましょう。ぶどうを栽培する人は、枯れ枝を刈り込むだけで はなく、実のなる枝さえいくらかは刈り取ることをご存じですか。収穫量をいくらか犠牲にしても、質の良いぶどうを得ようとするのです。同じように、私たち も休みなく動き回ることをやめて、働きの全体的な質を良くするようにすべきです。

    他にもうひとつ、気をつけるべきことがあります。バランスを維持すべきだといって、教会内での責任を避ける言い訳にするべきではありません。牧師たちは 「大部分の奉仕がほんの数人の肩に負わされ、他の人は何もしようとしない。」と嘆きます。これでは困ります。ひとつの極端から、反対の極端に飛躍しないよ うに、常識を働かせましょう。

    From ドクター ジェームス・ドブソンのQ&A

  • 子育てQ. 博士ご自身、父親としての最大のチャレンジは何でしたか。また、そこから何を学ばれましたか。

    A. 子どもの健康を保ち、教育を受けさせ、自分のことを自分でできるようにさせ、神と人とを愛するように育てることは、人生で最大のチャレンジだと思います。 その複雑さと予測できないことが多いことは、宇宙飛行の技術以上のものがあると思います。そして、クリスチャンの親が家庭で教えようとしていることと、 ちょうど反対のことを社会が教えてしまうような時代には、親の仕事はいっそう困難です。私たちは決して完全な父また母であることを求められているわけでは ありません。私たちの過ちや失敗にもかかわらず、子どもたちは普通は善良な大人に育つのであり、親に自慢する権利はありません。
    もちろん私も父親として失敗をしました。同世代の多くのお父さん方と同様、私も仕事のプレッシャーと家族の必要とのバランスを取るのに苦労しました。私が家にいなかったわけではありませんが、その時間を十分取ることは大変でした。
    私 の最初の著書「思いきってしつけましょう」が出版されたのと、第二子ライアンが与えられたのは、たまたま同じ週でした。赤ちゃんのおかげで家中がてんてこ まいになるのは普通ですが、拙著に対する反響がそれに輪をかけました。当時私は、医学部の専任教授でしたが、何千通もの手紙とありとあらゆる種類のリクエ ストが洪水のように押し寄せました。突然の反響をどう処理したら良いか途方に暮れました。ある時など、木曜日の夜にニューヨークに飛び、三日間で17のテ レビ番組と記者会見をこなし、翌週の月曜の朝に帰宅したことを思い出します。目が回るような日々でした。私にとって、いつも暗闇の中の灯台のような役目を してくれていた父は、私の事情を知って手紙をくれましたが、それが大きなきっかけになりました。
    まず、父は私の成功を祝福してくれた後で、「この世でのどれ程の成功も、家庭での失敗を埋め合わせることはできないよ。」と警告してくれました。
    子 どもたちの精神面の幸せが私の最大の責任であり、子どもたちの信仰を築き上げるただひとつの方法は、信仰生活を目で見せ、あとはひざを折って祈ることであ るということを父は思い起こさせてくれました。私が持てるエネルギーを全て仕事に注いでいたとしたら、それはとてもできないことでした。
    父の貴重なアドバイスを決して忘れたことはありません。結局、私は大学の職を退き、現在のミニストリーを始めるように導かれ、自宅にいる時間を確保できるようになりました。
    ラジオ放送を始めて、講演依頼を引き受けることをあえてやめましたので、出歩くことが減りました。拙著の販売促進のための旅行や、その他長期間家族の顔を見られなくなる種類の責任を引き受けないようにしました。
    あの時代のことを思い起こすと、子どもたちとの関わりを優先する決断をしてよかったと思います。今、息子や娘とよい関係を持っているのは、彼らが父親を必要としていたあの時期に私が家族のための時間を作ったからだったと思うのです。
    こ の回答を読んでいるお父さんの中には、あの頃の私のような立場にいる方々が多くいらっしゃるでしょう。もしあなたがその一人であるなら、ぜひ家族を第一に していただきたいと申し上げたいのです。今あなたの足元にまといつくお子さんたちは、あっという間に大きくなってしまいます。今のチャンスをみすみす逃さ ないでください。
    その代価はどんな仕事の業績や成功にも代えられません。あなたが私の年齢になった時には、家族との関わりに勝るものは人生にないことを実感なさることでしょう。


    From ドクター ジェームス・ドブソンのQ&A
  • テレビ見る子供たちQ うちの子が一緒に遊ぶ、近所のお子さんたちは、あきれるようなテレビ番組を見ています。親たちが、暴力やセックスを子どもたちに見せていることが信じられません。こういう番組を見ていると、後々どのような影響が出るのでしょうか。

    A  あまりにも多くの親たちが、テレビを子どもの好き放題に見せていることは、悲しく、また理解しがたいことです
    「何を見せてもいいじゃないか。」と言う方々に、私はこう聞きたいと思います。
    見ず知らずの人が、あなたの家を訪ねてきて、「お疲れのようですね。一日二日、お子さんたちの面倒を見てあげましょうか。」と言ったとします。「やあ、ありがたい、ぜひ、頼みます」と答える人は、まずいないでしょう。
    これは、「子どものテレビを考える会」代表のペギー・チャレン女史が使った例です。彼女の言いたいことは明らかです。

    子 どもたちをテレビの前に座らせる時、私たちは彼らを見ず知らずの他人の手に任せているのです。子どもに自由にテレビを見せることによる危険性は、ますます 大きくなりつつあります。テレビでの暴力が、後になってしばしば子どもや十代の若者による暴力となって現われることは、数多く実証されてきています。

    中でも、レナード・D・アロン博士の研究は、大変に説得力のあるものです。
    複数の子どもたちを、まず8歳、次に19歳、最後に30歳の時に調査しました。国は、米国、豪州、フィンランド、イスラエル、ポーランドにまたがりました。結果は、どこでも同じでした。
    8歳の時に暴力番組をひんぱんに見ていた子ども程、30歳の時に犯罪者となっていた確率が高く、飲酒時の行動は節度を欠いていました。

    親は、子どもたちのテレビを見る時間と番組の内容を規制しなくてはいけません。さもないと、恐ろしい結果になるかもしれません。


    FROM ドクター ジェームス・ドブソンのQ&A

  • Q. 礼拝や集会はどんなプログラムですか?

    A. 教会によって多少のプログラムの違いはありますが、大きな内容は次のようなものです。

    (1)賛美=聖歌、賛美歌、ワーシップソングなどを歌います。
    (2)祈り=神への感謝、日常生活の願いやとりなしなどを祈ります。
    (3)説教=聖書の中からの具体的なメッセージです。
    (4)献金=教会によって方法などは違いますが、献金するかどうかは自由です。
    (5)お知らせ=その教会の報告や行事などのお知らせです。
    (6)交わり=礼拝や集会後、お茶などをいただきながらのくつろいだひとときです。この時にいろんな方とも出会い、お友達になれます。

    いずれにせよ、何かを強制されることはありませんので、安心して参加してください。