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良くある質問と答え

  • Q. 教会には、なぜ十字架があるの?

    A. ローマ時代、十字架刑というのは、もっとも恐 ろしい犯罪者への刑罰の方法でした。イエス・キリストは何の罪も犯されませんでしたが、約2000年前に 2人の強盗と一緒に十字架につけられました。それは、「私たちの罪の身代わり」であった、と聖書は語っています。十字架上でイエス・キリストが流された血 潮によって、私たちの罪はゆるされ、聖なる神の前で「義」とされるのです。
    そのことをいつも心に覚えて忘れないために、多くの教会には十字架がシンボルとして付けられていますが、十字架に手を合わせて拝んだりするためではありません。
  • ??どうしたら神の御心は分かるのですか。天から声が聞こえて来るわけではありません。人間は、神の御心をただ推し測ることしかできないのですか。

    とても大切なご質問です。神の御心があやふやなら、神に従えません。ところが、ほとんどの方は神の御声をどうやって聞き分けたらいいか、明確には分っていません。それで、自分の気持ちや印象に頼るのですが、それは信頼できるものではなく、神の御心を知るには危険です。感情は、大変主観的です。自分の願いや出来事や、それに昨晩の睡眠時間にさえ影響されます。神の声を聞いたと早とちりした信者たちは、時に大失敗をしました。 


    ある大学生の話があります。彼は、とある夜中、ある女性と結婚すべきだという強い思いを持って目をさましました。それまでに1、2回デートをしただけの人ですが、神が「この女性だ!」と言われたように思い込んだのです。翌朝、彼は女性に電話して、自分の予感を告げました。この女性は、彼と同じようには感じなかったのですが、神には逆らえないと思いました。2人は間もなく結婚しましたが、うまくいかず、ずっと苦しみ続けています。 


    神の御心が分ったと思い込んだ人たちについての、似たような話はたくさんあります。悪魔は「光の天使」(第二コリント11章14節)として来ることを思い出してください。つまり、神の声の偽物をつくり出すという意味です。突然に受けた思いや予感を、人間が無批判かつ衝動的に受け取るようにしむけることで、悪魔は人間を混乱させ、幻滅させることができます。 


    感情や予感によって神の御心を判断するということに関して、私は南カリフォルニア大学の博士課程を終了して、博士号を授与された日のことを思い出します。教授たちに握手をしてもらい、祝福のことばをかけられ、それまでに熱心に求めてきたものをついに得てキャンパスを後にしました。その日、車で家に向かいながら、私はそれまでの人生における神の祝福を感謝し、これから御心のままに私を使ってくださいと祈りました。あの小さな、赤いフォルクスワーゲンの中で神と交わった時、主をとても近く感じました。 


    さて、とある角を曲がった時(今でもその場所を覚えています)、1年以内に誰か私の身近な人が死ぬ、という強い予感を私は持ちました。そのことが起きても、私は驚き惑うことなく、神を信じ頼り続けるようにと神がおっしゃっているように、私には思えました。 


    その突然の予感を説明できるような死とか何かを、全く予想してはいなかったので驚きました。いったい誰が死ぬのか、またどのようにその最後が来るのかなどと考えると、心臓がどきどきしました。それでも、家についた時そのことを誰にも話しませんでした。 


    1ヵ月たちましたが、どんな悲劇も、死別もありませんでした。さらに2、3ヶ月がたちまちのうちに過ぎましたが、私の家族の誰も死にませんでした。ついに、嫌な予感がしたあの日から1年過ぎましたが、何事もありませんでした。父が亡くなるまで、10年の月日が流れました。しかしそれは、フォルクスワーゲンの中の予感とは何の関係もなかったと思います。 


    それ以来、多くの方々をカウンセリングし、またその他の職業上の経験を通して、私のようなあやまった思い込みを持つ人が決して少なくないことを知りました。同じような経験が、特にそのような考えに影響されやすい直感的な方々にはよくあるようです。 


    例えば、30歳になるお母さんが、不安とうつ症状がとれないという訴えを持って私の所に来られました。お話を聞いていると、16歳の時に通っていた教会の礼拝で経験したエピソードを話されました。説教の終わる頃、彼女は、神からの驚くようなメッセージを「聞いた」というのです。「ジーニー、他の人がわたしのことを知ることができるために、あなたは死ぬ」という声です。 


    彼女は、震え上がりました。自分が絞首刑台の上に立たされ、死刑執行の縄が自分の頭の上にぶら下がっているかのように感じました。彼女はパニックに陥り、席から飛び上がり、ドアをいくつも通り抜けて教会を後にしました。すすり泣きながら走りました。人に話したら罪を犯すような気がして、誰にも言えませんでした。何年もの間、神の判決の執行がいつなされるのかと、息をひそめるように生活していました。しかし、それから10何年もたつのに、彼女は今も健康そのもののようです。

    このような例をはじめ様々な実例から、私は、自分の受けた予感を勝手に解釈するのは賢いことではないと考えるに至りました。

  • Q. プロテスタントとカトリックは、どう違うのですか?キリスト教の 派閥ですか。一致することはないのですか。

    A. 宗教改革以後、教会はローマカトリック教会と、ルター派、及び無数のプロテスタント諸教派とに分裂し、それぞれの伝統を形成し今日にまで至っていま す。(もう少し正確な説明が必要ですが、今日は省略しておきます。)いかに真理のためとは言え、本来一つであるはずのキリストの体なる教会が事実上、分断 されているのは、決して本来的ではなく、教会は一つのものであると信じられるべきです。このような中で、20世紀からエキュメニカル(教会一致)運動が起 こり始め、教派の壁を超えた対話や協力関係の模索が続けられています。また1999年にはカトリック教会とルター派との間で「義認の教理に関する共同宣 言」が交わされ、大きな前進を見せています。

  • 子育て

    Q 家族のことを考えたら、忙しすぎることがよくないことは分かります。でも、私たちの教会は平日もほとんど毎晩何かの活動をしています。夫も私もそのうちの 多くの働きのリーダーシップを取るように頼まれたり、または期待されます。 正直に言って、牧師から依頼されたことを断わると、罪意識を覚えます。結果的に、家族の時間はなくなってしまいます。この矛盾をどうしたら解決できるで しょう。

    A そのジレンマは私にも分かります。私ども夫婦も、結婚して最初の10年間は同じ葛藤を経験しました。
    まだ若かった私は、当時教会から頼まれることは何でも引き受ける義務があるかのように感じました。教会学校の校長、成人クラスの教師、教会の役員などを務 め、その他、何か特別な必要がある時は何でも引き受けていました。妻も、子供聖歌隊の指導、婦人会の役員など教会活動に深く関わっていました。私は博士過 程の最終段階にあり、仕事面での責任も膨大でした。息もつけない状態で、家には私と遊びたい盛りの娘がいるのに、ある時は17日間も夜の会合が続いたこと を思い出します。

    それ自体は重要な仕事であっても、それを引き受けるには判断力と常識とを働かせるようにと、主は私に望んでおられることが少しずつ分かってきました。一人 の人間ができることには当然限界があります。クリスチャンとしての義務、仕事、レクリエーション、社会的責任そして意味ある家庭生活などをバランスよく計 画する必要があることが分かりました。この問題を整理するのに役立った聖書のことばは以下の二つです。

    第一は、マタイの福音書14章13~14節にあります。「イエスはこのこと(バプテスマのヨハネの死)を聞かれると、舟でそこを去り、自分だけで寂しい所 に行かれた。すると、群衆がそれと聞いて、町々から、歩いてイエスのあとを追った。イエスは舟から上がられると、多くの群衆を見られ、彼らを深くあわれん で、彼らの病気を直された。」

    この時、イエスはいとこであり友であるバプテスマのヨハネの死をいたみ悲しんでいたに違いありません。「自分だけで寂しい所に」行く必要があったのです。 それでも群衆は主の居場所を知り、いやしの御手を求めて来たのです。喪中であっても、イエスは人々をあわれみ、その必要を満たされました。このことから私 の出した結論は、私たちも困難や不都合にめげず自分を犠牲にするべき時があるということです。また別の時には何千もの人々がいやしを求めてイエスに押し寄 せました。みことばを語られた後、主は弟子たちと舟に乗り込み、その場を去りました。マルコの福音書4章36節によれば「弟子たちは、群衆をあとに残し、 舟にのっておられるままで、イエスをお連れした。」疑いなく、その日の群衆には癌、盲目、身体の障害、その他あらゆる不幸を背負った人々がいたはずです。 主は彼らすべてをいやすために徹夜することもできたでしょうが、明らかに体力の限界に達して、休む必要を感じたのです。主と弟子たちが湖にこぎ出したと き、病人たちを岸辺に置き去りにしたのです。似たような出来事がマタイの福音書14章23節にも記されています。「群衆を帰したあとで、祈るために、ひと りで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。」自分を与えるべき時もあれば、なすべき大切な仕事はあっても、一人になり、祈り、日 常の雑事から逃れるべき時があります。

    イエスのしたような休憩とリフレッシュの時を確保しない人は、やりたいこともうまく進まないようになります。例えて言うなら、庭のスプリンクラーの蛇口を 多く作りすぎたようなものです。どの蛇口からも不十分な水量しか出ません。もうひとつの例をあげましょう。ぶどうを栽培する人は、枯れ枝を刈り込むだけで はなく、実のなる枝さえいくらかは刈り取ることをご存じですか。収穫量をいくらか犠牲にしても、質の良いぶどうを得ようとするのです。同じように、私たち も休みなく動き回ることをやめて、働きの全体的な質を良くするようにすべきです。

    他にもうひとつ、気をつけるべきことがあります。バランスを維持すべきだといって、教会内での責任を避ける言い訳にするべきではありません。牧師たちは 「大部分の奉仕がほんの数人の肩に負わされ、他の人は何もしようとしない。」と嘆きます。これでは困ります。ひとつの極端から、反対の極端に飛躍しないよ うに、常識を働かせましょう。

    From ドクター ジェームス・ドブソンのQ&A