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良くある質問と答え

  • 日曜日は、イエス・キリストの復活を記念する日です。その日に教会は礼拝を行ってきました。そのキリスト教が社会の中心となっていったことによって、紀元 4世紀に、ローマ帝国で、日曜日を休日とすることが定められたのです。日曜日が休日だから礼拝をしているのではありません。教会がキリストの復活を記念し て日曜日に礼拝をしていたから、日曜日は休日になったのです。
  • 子育てQ 子どもをしつける親が、最も犯しやすい過ちとは、どのようなものでしょうか。

    A .  私の見てきているところ、それは、親が怒りによって子どもをコントロールしようとすることだろうと思います。
    どんな年齢層を対象にしても、怒りで人を動かそうというのは最も非効率的な方法です。それなのに、多くの大人たちは子どもをしつけるのに、自分の感情的な言動に頼ろうとします。

    ある先生が、全国ネットのテレビ番組で言っていました。

    「教師であることには誇りを持っています。でも毎日子どもたちを教えるのは嫌で仕方がありません。生徒たちは全く言うことを聞かないので、教室の秩序を保つために、私は絶えず怒っていなければなりません。」

    明けても暮れても、嫌みで怒りっぽい先生を演じつ続けなければならないとは、何ともご苦労なことと言わねばなりません。

    しかし多くの先生方や親たちはそれ以外の指導の仕方を知らないのです。これは、疲れるやり方であり、そして効果がありません。自分自身がどういう風に人から動かされるかを考えてみたら分かり易いでしょう。

    今晩帰宅途中に60キロオーバーのスピード違反をしてしまったとしましょう。街角に警官が立っていますが、彼にはあなたを捕まえる方法がないとします。パ トカーも白バイも持っていません。肩章も拳銃も違反切符もありません。できることは、ただ街角に立ってスピード違反をしているあなたに向かってののしるこ とだけです。警官がこぶしを振り上げるのを見てあなたは減速するでしょうか?もちろんしません。そばを通り過ぎながら手を振って挨拶するかもしれません ね。怒ったからといって、警官は何もすることは出来ません。漫画のような話です。

    一方、バックミラーの中に黒と白の車が頭上に赤いランプ を回しながら近づいてくるのを見ることほど、スピード狂のドライバーをおとなしくさせるものはありません。路肩に停車すると、威厳があり、礼儀正しい警官 が運転席に近づいてきます。2メートルもあろうかという大男で、ローン・レンジャーの様な声をし、銃身をごく短く切った散弾銃を両腰に下げています。彼は 丁寧ながら毅然とした態度で、「お急ぎのところ恐縮ですが、レーダーよると制限速度40キロのところを、100キロで走っておられたようですね。免許証を 拝見します。」と言います。
    警官は革表紙の召喚状を開いてあなたの方に顔を寄せます。彼は敵意を表したり、非難をしたりはしないのに、あなたは即座に求めに応じます。まごまごしながら、気に入らない自分の写真のついた免許証を財布の中から取り出します。
    な ぜあなたの手は汗ばみ、口はカラカラなのでしょう。どうして心臓は喉から飛び出しそうなほど脈打っているのでしょう。それは、警官がしようとしている手続 きが不愉快極まりないからです。あなたのこれからの運転癖を劇的に変えてしまうのは、警官のこの一連の行動なのです。怒りではなく、懲らしめの行いが行動 を直すのです。

    実は、大人の怒りは子どもの心に破壊的な軽蔑心を引き起こすと私は信じます。子どもには、私たちの怒りは、事態をどうに も出来ない無能さと映るのです。正しいことを教えようとするのですが、効果がないのでやたらと手を振り回し、涙を流さんばかりにして実行もしない脅迫を繰 り返すのです。
    お聞きしますが、あなたご自身はそんな風に感情的な方法で法律を守らせようとする裁判官がいたとしたら、尊敬なさるでしょうか。答えを待つまでもありません。ですから、法律の世界は意図的に、客観的で、合理的で、威厳に満ちたものとされているのです。

    私は、親たちや先生方が正当な感情を子どもたちから隠すようにと言っているのではありません。あるいは、全てをうちにしまい込んだ、応答をしない、面白味 のない、ロボットの様な人間になれと言っているのでもありません。子どもたちが侮辱的な態度を取ったり、不従順になることはありますし、私どもがいら立つ のは、無理のない場合はあります。そういう場合は、むしろ怒りを表現するべきです。そうでなければ、偽善者でしょう。

    私のポイントは、怒りがしばしば子どもたちの、行儀を直すための道具として意識的に使われるということです。しかしこれは効果がないばかりか、子どもの信頼を失うことにもなるのです。


    ドクター ジェームス・ドブソンのQ&Aから

  • テレビ見る子供たちQ うちの子が一緒に遊ぶ、近所のお子さんたちは、あきれるようなテレビ番組を見ています。親たちが、暴力やセックスを子どもたちに見せていることが信じられません。こういう番組を見ていると、後々どのような影響が出るのでしょうか。

    A  あまりにも多くの親たちが、テレビを子どもの好き放題に見せていることは、悲しく、また理解しがたいことです
    「何を見せてもいいじゃないか。」と言う方々に、私はこう聞きたいと思います。
    見ず知らずの人が、あなたの家を訪ねてきて、「お疲れのようですね。一日二日、お子さんたちの面倒を見てあげましょうか。」と言ったとします。「やあ、ありがたい、ぜひ、頼みます」と答える人は、まずいないでしょう。
    これは、「子どものテレビを考える会」代表のペギー・チャレン女史が使った例です。彼女の言いたいことは明らかです。

    子 どもたちをテレビの前に座らせる時、私たちは彼らを見ず知らずの他人の手に任せているのです。子どもに自由にテレビを見せることによる危険性は、ますます 大きくなりつつあります。テレビでの暴力が、後になってしばしば子どもや十代の若者による暴力となって現われることは、数多く実証されてきています。

    中でも、レナード・D・アロン博士の研究は、大変に説得力のあるものです。
    複数の子どもたちを、まず8歳、次に19歳、最後に30歳の時に調査しました。国は、米国、豪州、フィンランド、イスラエル、ポーランドにまたがりました。結果は、どこでも同じでした。
    8歳の時に暴力番組をひんぱんに見ていた子ども程、30歳の時に犯罪者となっていた確率が高く、飲酒時の行動は節度を欠いていました。

    親は、子どもたちのテレビを見る時間と番組の内容を規制しなくてはいけません。さもないと、恐ろしい結果になるかもしれません。


    FROM ドクター ジェームス・ドブソンのQ&A

  • Q. 家内安全や商売繁盛を願う宗教はご利益宗教なのであって、キリスト教はそういうものとは違う、と聞いたことがあります。それでは、自分の幸せを願うことはいけないことなのでしょうか。(四十代、主婦)

    A.  家庭を持ち、大切な子供を育てる責任を持つ親として、健康や経済的安定を願うことは、自然なことであり、当然とも言えます。おそらく、自分の幸せを願わない人などいないとすら言えます。キリスト教はこれらを否定するのでしょうか。

    ◇ キリスト教はご利益宗教?

    キリスト教は聖書のメッセージを土台としていますので、聖書が何といっているかが答えとなります。ところがその聖書は、一方では「自分の命を救おうと思う 者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう」(マタイ 十六・二十五)とあり、自己否定の道が示されております。しかし他方では「祈のとき、信じて求めるものは、みな与えられるであろう」(マタイ二十一・二十 二)ともあります。
    これらのみ言葉は矛盾するように見えますが、どちらも最終的には幸せが与えられるという点で、重なるところがあります。聖書 はある意味で本当の幸せがどこにあるかを伝える書物です。ある敬虔な牧師は、「キリスト教は、究極的には真の意味でのご利益宗教だ」と言いましたが、わた しも同感です。しかし、一般的に考えられているご利益宗教とは、多くの点で異なります。

    ◇ ご利益信仰と人格的信仰

    信 仰者の在り方という側面から比較してみましょう。いわゆるご利益宗教においては、世界の中心に自分がいます。自分にとっての利益を願い、良いと思えない 病、貧困、災害等を避けることを願います。ご利益があるならどの神でも構いません。しかし、聖書は自分を中心とした信仰の在り方そのものに疑問を投げか け、さらに警鐘を鳴らしています。ご利益信仰に潜むこの自己中心性そのものが、実は大きな不幸の第一歩なのです。
    それに対して聖書で伝えられて いる信仰の在り方はよく「人格的信仰」と呼ばれます。それは自分ではなく神を中心としていくことであり、神との人格的信頼関係を人生の軸としていくことな のです。病気や貧困などから守られることも祈ると同時に、そういった苦難を神からの訓練として、受けとめることを学びます。神中心とは自分の利益のために 神を利用するという生き方との決別をいみしています。

    ◇ 真の幸せはどこに?

    幸せを求めることは人間として自然なこと です。しかし、何が本当の幸せなのか、また人生から幸せを奪うものが何か知らないゆえ、多くの人は表面的には豊かになった社会のなかでもがいているので す。ヒルティーは「私は病気で幸福な人をたくさん見てきた。私は貧しくて幸福な人もたくさん見てきた。しかし心が罪で腐っていて幸福な人には会ったことが ない」と言いました。聖書は、罪こそ幸せを奪うものであると教えています。罪とは、神ではなく自分を中心として生きて行くその在り方(Being) を指し、罪の行ない (Doing) はその結果なのです。すなわち、罪を犯すから罪人なのではなく、罪人だから罪を犯すのです。ご利益信仰そのものの内に潜む罪こそ幸せを奪うものなのです。

    何が幸せなのかは人間には分かりません。これが私の幸せだと思ってつかんだとしてもその瞬間に空しく消えていきます。真の幸せは追い求めて掴むものではなく、神の前に罪を悔い改めへり下る時、神がそっと与えて下さるものなのです。


    OMSウエストロサンゼルスホーリネス教会のQ&Aから