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確信の重要性

投稿者: Administrator on . Posted in バイブルしましょう! Daily Devotion

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霊的成長の第1段階:クリスチャンの少年期 : 確信の重要性

知ることとはっきり知ることの違い

創世記 3:1-6は、はじめの人間の罪の場面です。 マタイの4:1-11は、人間の体をもっていたキリストの試みの場面です。二つの場面で、はじめの人間の失敗を第2の人間であるキリストは完全に勝利を得られました。

創世記 3:1‐6を学びましょう。

3:1 さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」

この場面の前に、神様がアダムとエバに語られた神様の言葉は、創世記2:16‐17に書いてあります。

2:16 神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。 2:17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」

こ こから見ると蛇は、神様が言われた言葉を逆にし、質問をしてきました。アダムとエバがもし、神様の言葉をしっかりとわかったら、混乱をこなかたでしょう。 しかし、狡猾であった蛇は、神様の言葉を真実から不真実に変えて人間に語っているのです。神様が言われたことを論理学的に分析をすると次のようです。

神様:園のどの木からでも思いのまま食べてよい。(A)

蛇:園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。(~A)

蛇は、神様が言われたのをチャレンジします。それも、反対の言葉で質問をしてきます。

3:2 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。

3:3 しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」

エバの答えを神様が言われたことと比べましょう。

神様:善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。

エバ:あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。

神 様は、「必ず死ぬ」といいましたが、エバは、「死ぬといけない」といいます。しかも、「それに触れてもいけない」といいながら、神様がいわれたこともない ことを言い出し始めます。私たちの生活の中でも、聖書が教えていないことを私たちも加えることはないでしょうか?そして、神様が言われたことを75%くら いに変わることがないでしょうか?このように、100%か0%かを、50%や75%のものに変えるのも神様の言葉を確信させるものでは有りません。

知 ることと確信を持つことの違いは、多くあります。99%を知ることは、確信をさせるものでは有りません。神様が私たちに要求しているのは、100%の確信 です。神様が御言葉に示した全てを確信にいたる真実として受け入れなければなりません。ですから、クリスチャンの確信は、最も大事です。もし、このような 確信を持ったなければ、蛇である悪魔、あるいは、サタンは、私たちにチャレンジします。そのチャレンジの目的は、完全に神様の御言葉の正反対に語り、私た ちを不信仰や不従順にさせるためです。ですから、知るだけじゃなく、確信を持つ必要があります。

3:4 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。

蛇 は、神様が言われた「必ず死ぬ」ということから、「決して死にません。」というところまで人々を誘惑します。悪魔の人間に対するチャレンジは、神様の御言 葉へのチャレンジです。聖書では、第一ペテロ 1:24 「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。 1:25 しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。 変わらない言葉により、私 たちの全ての考え、行動、精神を改めなけばなりません。

3:5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、 善悪を知るようになることを神は知っているのです。」 悪魔は、私たちが神のようになることを誘惑します。これは、どんな意味でありますか?自分が中心と なり、全てのことの判断基準とすることです。神様が全てを創造しましたが、人間は、自分で全ての価値観を創造しようとします。神様は、人間が行くべき道を 作りましたが、人間は、自分での道を作ろうとしています。創造主に従うことではなく、自分なりの道を作り、それに神様の道を合わせようとします。このよう な人生は、空しくなり、完全である神様の道に従うまで、本当の満足を感じることができません。

3:6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。

このような、結果は、神様の御言葉を確信していないからです。ですから、確信にいたる御言葉を持つことにより、勝利の信仰をもつことができます。

イエス様の勝利は、すべて、御言葉の確信でした。マタイ4:1‐11 では、サタンの誘惑にイエス様は、「…と書いてある。」という答えをすることにより、誘惑を勝利しました。

神様の御言葉に対する確信こそ、クリスチャンの勝利の基礎であります。

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良くある質問と答え

  • Q. 教会には、なぜ十字架があるの?

    A. ローマ時代、十字架刑というのは、もっとも恐 ろしい犯罪者への刑罰の方法でした。イエス・キリストは何の罪も犯されませんでしたが、約2000年前に 2人の強盗と一緒に十字架につけられました。それは、「私たちの罪の身代わり」であった、と聖書は語っています。十字架上でイエス・キリストが流された血 潮によって、私たちの罪はゆるされ、聖なる神の前で「義」とされるのです。
    そのことをいつも心に覚えて忘れないために、多くの教会には十字架がシンボルとして付けられていますが、十字架に手を合わせて拝んだりするためではありません。
  • 洗礼とは、キリスト信者となり、教会の一員に加えられるための儀式です。洗礼は、聖餐(せいさん)と並んで、主イエス・キリストご自身がお命じになった、 神様の救いのしるしです。それを聖礼典(せいれいてん)と言います。洗礼を受けることによって、私たちの罪の赦しのために身代わりになって十字架にかかっ て死んで下さったキリストの救いにあずかり、キリストの復活によって打ち立てられた新しい命に生きる者となり、礼拝を守りつつ生涯を歩むキリスト者(クリ スチャン)となるのです。教会が言い表している信仰を自分も信じ、受け入れることを表明する「信仰告白」をした人に洗礼が授けられます。
  • 子育てQ 親が性教育をしようとするとき一番助けになるのは何でしょう。

    A.  結婚前の純潔と生涯続く互いへの忠誠の大切さを強く信じるキリスト教会こそが、同じ信念を分かち合う親たちの助けになるべきです。

    こ のような倫理観の歪んだ時代に、伝統的な道徳を見い出せるところは他にありません。キリスト教会の持っている信仰を最もよく体現しているのは教会そのもの です。今日のように聖書的道徳が攻撃されて、この働きを担おうとする教会が少ないことは残念です。一部の私立校では親の望むような性教育の助けが与えられ ます。
    しかし、そこでも時に全く無視されたり、不適当な扱いをされることがあります。それで必要な情報を与えるために公立校などでは不幸なことに親の意思に反する、行き過ぎた「性教育」が、時には幼稚園からなされることがあります。


    ドクター ジェームス・ドブソンのQ&Aから

  • 子育てQ. 自信がなく、自尊心が低い子どもたちや若者たちがこれ程までに増えてきたのはなぜなのでしょうか。

    A. ひとつには、私たちの社会が持っている、人間の価値をはかる尺度が狂っているからです。全ての人が価値ある存在とはみなされません。全ての人がありのま まに受け入れられていません。生まれながらにして誰からも認められるような資質を持った人にしか賞賛は届きません。

    この悪循環を私たち親はなんとかすべきです。私たちの文化で最も高く評価されているのは美しさです。たまたま美しく生まれついた人は誉れと尊敬を受けます。
    そうでない人は他に落度はないのにさげすまれ、拒まれます。乳幼児でさえこの価値基準にさらされます。美しい子はより可愛がられるのです。

    そ れで、第一子を産んだ後に母親がふさぎ込むのは珍しくはありません。赤ちゃんは一般的には不器量なものとわかってはいても、自分の子どもは例外だと親は思 います。どんな母親も、まぶしい笑顔、かわいいまばたき、前歯が4本そろって、血色がよい、広告に出てくるような子どもを産みたいと内心は思っているので す。
    ところが、わが子は期待はずれで、歯も髪の毛もなく、しわくちゃで泣き叫ぶだけです。成長するにつれ、親のみならず他人からも子どもは人としての価値をはかられるようになります。

    赤ちゃんコンテストの優勝者には賞金や賞品が当り前のように与えられます。魅力的な子どもは、何もなくてもすでに有利であるのに、なんという不公平な世の中でしょう。
    ジョージ・オーウェルの皮肉が思い浮かびます。「人はみな平等であるが、ある人たちはより平等なのだ」この言葉の真実性が私たちの子どもたちの人生において証明されているのは実に悲しいことです。


    ドクター ジェームス・ドブソンのQ&Aから