いろんな種類のウェブページ

投稿者: Administrator on .

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・一般的な興味に対するもの

福音についてはまったく触れませんが、読者を考えさせるような質問を投げかけます。このようなページは興味深く、さらに福音が含まれているようなページへと読者を誘いこむ事ができるでしょう。

・一般的なことに対するクリスチャンの見方

宗教的ではない、一般的なことを取り上げてクリスチャンの考え方を紹介していく

・証(あかし)

実際に人がどのようにして神さまとであったかという話ですが、ある程度、世俗的雑誌の言葉や形式を使うと良いでしょう。

話し手としてのイエス・キリスト

あなたが新聞を読む時、どこから読みますか?大抵は人についての記事ではありませんか?人はみんな、抽象的な概念よりも他の人に興味があるものです。イエ ス・キリストを例として考えてみましょう。彼の教えの中心は人についての例え話ではなかったでしょうか?わたしは、キリストはユーモアに富んだ素晴らしい 話し手であったと思います。きっと主は、登場人物によって声音を使い分けたり、身振り手振りを使ったりして話をされたかもしれません。

 

"メッセージを目に見える形で伝えると、より説得力のあるものとなります。キリストが人となり、地上に来られたことにより、抽象的な真実がより明らかになったのです。

・ 私たちには、神の憐れみと裁きのバランスは知りえませんが、キリストが姦淫で捕まった女を石打の刑から救われたことならわかります。

・ 私たちには、神なしでは目的を見失っているということに気づきませんが、迷える羊のことならわかりまます。

・ 私たちには、愛に満ちた神が解りませんが、キリストが十字架上で死刑にされたことならわかります。

キリストの人生は神を表しているだけではなく、永遠の真実を表しているのです。信仰を説明しようとするよりも、ガラリヤ湖畔に生えていたからし種の木を指差 しました。罪は雑草のように育ち、パン種のように影響力があるものです。偽善の説教をすることをキリストは外側を白く塗ったきれいなお墓―内側は死人の骨 が詰まっていて、とても清らかとはいえない―のようだといっています。" James Watkins

ビリー・グラハムが説教する時に、本当に あった話を必ず取り入れることをご存知ですか?伝道ウェブページで証を効果的に使うのも得策です。けれども、"証"とは呼ばずに(クリスチャン以外には何 のことか解りません)、"本当にあった話"、"人生の経験"などとしてください。

教会で使うだけではもったいない

伝道的なウェブページで証は、教会での証とは違う書き方をすべきです。クリスチャン専門用語を証の中から取り除き、形式や内容を未信者の興味や視点に合わせ て下さい。他のクリスチャンを励ます為の証ではないのです。"私"を主語にして書くとよいでしょう。また、第三者として客観的に書くのも手です。

絵を取り入れたり、証を書いた本人の写真をスキャナで取り込んでもよいでしょう。その文章を書いた人の写真があると、読者はもっと身近に感じるものです。証 を書いた人の個人情報を載せると、インパクトがさらに強くなります。けれども、個人情報の詳細を載せてしまうと悪用されてしまう恐れもあるので気を付けて ください。

手元にある証を未信者向けに修正、書き直し、誰か(できれば未信者の人に)に一度読んでみてもらってください。何度か読み返し、改善することも大切です。

未信者に証を書くときのガイドライン

A. 対象となる読者 ・・・ いつも自分の証の対象を念頭に置いて書いてください。

B. 書き始める前に

" 何時、何処で、誰が、何故、何をした"という事を思い描いてください。最初から神さまについて、又は自分が信じた時について書くよりも、信じる前の状態や 抱えていた問題から入り、どのようにしてキリスト教に興味を持つようになったかということを建て上げていくと良いでしょう。

C. "釣り針"を使う

神さまがどのようにしてあなたの抱えていた問題(孤独、恐れ、不安、疑い、人間関係、性に関する問題、中毒、自殺未遂、無意味な人生など)から助けて出して下さったのかを"釣り針"にして、読者の関心を引いてください。

D. 内面の感情

あなたがクリスチャンになる前の内面の感情を分ち合ってください。当時を振り返って、あなたがどのように空しさや恐れを感じ、何処へ向かっていいのかわから ないような戸惑いなどがあったことを思い出して書いてみてください。あなたに共感する読者もいるはずです。あなたの信仰に興味は持ってくれないかもしれま せんが、彼らの問題に対する答えになるようなことを提案することができるはずです。もし、あなたがクリスチャンはバカで騙されているような人たちだと感じ ていたなら、そのまま書いてください。

E. 正直に

勝ち誇ったような証は避けてください。私たちのほとんどは、今もなお苦しみの中にいるのです。未信者との唯一の違いは私たちには助け手を知っていることです。 もし、あなたが今も悪戦苦闘していることがあるなら、正直に書いてみてください。大袈裟な証や、現状を"作り物のような完全な幸せな人生"とするような証 は、真実味に欠けるので避けてください。

"自分の欠点を隠すことは、クリスチャンがどのようにして勝利するのかを隠してしまうことと同じです。わたしが完全な人間ではないことをさらけだした時、彼らは私から学ぶことを望むようになったのです。書くことにおいても、同じ事が言えると思います"  Beverley Caruso

F. 前に信じていたもの

もし、あなたがクリスチャンになる前に、何か宗教を信じていたなら、それが何故あなたを満足させる事ができなかったのか(その宗教を信じている読者もいるか もしれませんから、敬意を払う事も忘れずに)書いてください。あなたの育った環境に、キリスト教の影響があった場合、今と何が違っていたのかを説明してく ださい。

G. クリスチャン専門用語は避ける(詳しくは、"計画を練る 3章 言葉"を参照してください。)

H. 台詞をそのまま引用

引用文の中に、台詞をそのまま引用すると臨場感を出す事ができます。例えば、"わたしの友人のシェリルが来て、わたしが好きそうな本を持ってきてくれたこと を告げてくれました。"とするより、"わたしの友人のシェリルが来てこう言いました。「あなたが好きそうな本もってきたわよ。」"とするほうが、インパク トがありませんか?

I. 誤解を解く

この世の風潮はクリ スチャンを誤解している傾向にあります。よく有り勝ちな誤解は、クリスチャンは古い決まり事にがんじがらめにされていて、何の楽しみもないということで す。あるかどうかもよくわからない天国に入る為に、善行を行っているというのです!ですから、あなたの証を通して、このとんでもない誤解を解いてくださ い。

J. 物事が起こった順番どおりにかかなくてもいい

Reader's Digest と Guidepostsによると、人生話はだいたい、次のように構成されているそうです。 1. 導入部: ユーモアにあふれる、または鍵となる過去の出来事 2. 現在の状態: 今、何をしているか 3. 過去を振り返って: 特筆すべき出来事(私たちの場合は、キリストとの出会い) 4. 結び: 過去の出来事に対する、今の気持ち

あなたが、誰かの人生話を読むときは、どのような構成になっているか注意してみてください。

参考(日本語)

ゴスペルハウスのデボーション・ガイド

信仰の体験談

参考ウェブページ(英語)

証の例?クリスチャン向けのデボーション

秘 密 兵 器

教 会では人々の証は、あまり有効に使われずに眠っている宝物のようなものです。わたしの手掛けているミニストリーの創立者は、毎週の礼拝で証を取り入れるべ きだと言っています。教会で発行して近所に配るようなニュースレターや機関紙に力強い証をいくつか含めることによって、効果を高める事ができるでしょう。 証は未信者に証を書くときのガイドラインに沿ったものをお薦めします。

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良くある質問と答え

  • 子育て

    Q 家族のことを考えたら、忙しすぎることがよくないことは分かります。でも、私たちの教会は平日もほとんど毎晩何かの活動をしています。夫も私もそのうちの 多くの働きのリーダーシップを取るように頼まれたり、または期待されます。 正直に言って、牧師から依頼されたことを断わると、罪意識を覚えます。結果的に、家族の時間はなくなってしまいます。この矛盾をどうしたら解決できるで しょう。

    A そのジレンマは私にも分かります。私ども夫婦も、結婚して最初の10年間は同じ葛藤を経験しました。
    まだ若かった私は、当時教会から頼まれることは何でも引き受ける義務があるかのように感じました。教会学校の校長、成人クラスの教師、教会の役員などを務 め、その他、何か特別な必要がある時は何でも引き受けていました。妻も、子供聖歌隊の指導、婦人会の役員など教会活動に深く関わっていました。私は博士過 程の最終段階にあり、仕事面での責任も膨大でした。息もつけない状態で、家には私と遊びたい盛りの娘がいるのに、ある時は17日間も夜の会合が続いたこと を思い出します。

    それ自体は重要な仕事であっても、それを引き受けるには判断力と常識とを働かせるようにと、主は私に望んでおられることが少しずつ分かってきました。一人 の人間ができることには当然限界があります。クリスチャンとしての義務、仕事、レクリエーション、社会的責任そして意味ある家庭生活などをバランスよく計 画する必要があることが分かりました。この問題を整理するのに役立った聖書のことばは以下の二つです。

    第一は、マタイの福音書14章13~14節にあります。「イエスはこのこと(バプテスマのヨハネの死)を聞かれると、舟でそこを去り、自分だけで寂しい所 に行かれた。すると、群衆がそれと聞いて、町々から、歩いてイエスのあとを追った。イエスは舟から上がられると、多くの群衆を見られ、彼らを深くあわれん で、彼らの病気を直された。」

    この時、イエスはいとこであり友であるバプテスマのヨハネの死をいたみ悲しんでいたに違いありません。「自分だけで寂しい所に」行く必要があったのです。 それでも群衆は主の居場所を知り、いやしの御手を求めて来たのです。喪中であっても、イエスは人々をあわれみ、その必要を満たされました。このことから私 の出した結論は、私たちも困難や不都合にめげず自分を犠牲にするべき時があるということです。また別の時には何千もの人々がいやしを求めてイエスに押し寄 せました。みことばを語られた後、主は弟子たちと舟に乗り込み、その場を去りました。マルコの福音書4章36節によれば「弟子たちは、群衆をあとに残し、 舟にのっておられるままで、イエスをお連れした。」疑いなく、その日の群衆には癌、盲目、身体の障害、その他あらゆる不幸を背負った人々がいたはずです。 主は彼らすべてをいやすために徹夜することもできたでしょうが、明らかに体力の限界に達して、休む必要を感じたのです。主と弟子たちが湖にこぎ出したと き、病人たちを岸辺に置き去りにしたのです。似たような出来事がマタイの福音書14章23節にも記されています。「群衆を帰したあとで、祈るために、ひと りで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。」自分を与えるべき時もあれば、なすべき大切な仕事はあっても、一人になり、祈り、日 常の雑事から逃れるべき時があります。

    イエスのしたような休憩とリフレッシュの時を確保しない人は、やりたいこともうまく進まないようになります。例えて言うなら、庭のスプリンクラーの蛇口を 多く作りすぎたようなものです。どの蛇口からも不十分な水量しか出ません。もうひとつの例をあげましょう。ぶどうを栽培する人は、枯れ枝を刈り込むだけで はなく、実のなる枝さえいくらかは刈り取ることをご存じですか。収穫量をいくらか犠牲にしても、質の良いぶどうを得ようとするのです。同じように、私たち も休みなく動き回ることをやめて、働きの全体的な質を良くするようにすべきです。

    他にもうひとつ、気をつけるべきことがあります。バランスを維持すべきだといって、教会内での責任を避ける言い訳にするべきではありません。牧師たちは 「大部分の奉仕がほんの数人の肩に負わされ、他の人は何もしようとしない。」と嘆きます。これでは困ります。ひとつの極端から、反対の極端に飛躍しないよ うに、常識を働かせましょう。

    From ドクター ジェームス・ドブソンのQ&A

  • 先に愛については既に触れました。しかし、神の愛、隣人愛は教会の特質として欠かすことが出来ません。そこで、もう一度愛について考えてみましょう。教会 の人々は、神を愛し、隣人を愛す人々です。イエスは何が一番大切かと質問された時に次の様に答えました。 12:28 律法学者がひとり来て、その議論を聞いていたが、イエスがみごとに答えられたのを知って、イエスに尋ねた。「すべての命令の中で、どれが一番たいせつです か。」12:29 イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。12:30 心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』12:31 次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」(マルコ12:28-31)

    一 番大切なことは、神を愛し、自分自身のように隣人を愛すことです。愛といいますとロマンチックな愛を考えがちですが、愛すために人は神から与えられている すべてを尽くすことを求められます。つまり、心(純真な思いや願い)、思い(感情や感覚)、知性(理論的な考え)、力(理知的な力と意志や肉体的な力)を 尽くして愛します。神の教えを理解し、心からその教えに従うことです。時には、理知的な力と意志や肉体的な力も必要でしょう。さらに、「人は自分自身のよ うに隣人を愛すべきだ」とイエスは言います。このことは自分自身も愛すことを裏付けています。これは、自分中心的な愛ではありません。むしろ、自分自身へ の愛は、神によって創造された確信と、神によって愛されているという確信からくるものです。同じ理由で、神によって創造された隣人を愛します。
  • 家族Q 博士の中絶に対する考えは極端だという人たちがいます。近親相姦やレイプや生まれてくる子が障害児である時でさえ、中絶は許されないと言われるからです。そういう立場を取られる理由は何ですか。

    A  文字どおり母親の命がかかっているという稀な場合にのみ、人間は発達過程にある胎児の命を奪う権威を持つと私は思います。

    その理由は、次の単純な質問に基づいています。「母親の子宮にいる赤ちゃんと、産道を30センチばかり下りた赤ちゃんとどんな基本的違いがあるのでしょう。」もしあるなら、それは何でしょう。人の誕生のどの時点で、神は子供を人間であると宣言されるのでしょう。

    赤ちゃんが母体から離れることには、単なる原形質から永遠の魂を持った人間への変化を説明する、何か特別神秘的なものがあるのでしょうか。私はないと思います。子宮内の赤ちゃんも、数分後にこの世に生まれる赤ちゃんも、確かに神様は同じ愛をもってご覧になるのです。
    両者の唯一の違いは、人の目に見えるか見えないかです。

    こ の前提を受け入れるなら、産前であれ産後であれ、子どもを殺すことは同じように人の道に反します。肉体上の問題、知的な障害、また妊娠の理由はこの際関係 がありません。思いがけない障害をもって生まれた子をその場で殺すようにとは、中絶賛成派の急先峰であっても言いません。
    実際に、人並みの知的能力を持たないであろう新生児や、数週間しか生きられないであろう新生児を殺したら、当局から殺人の責任を問われます。子どもの状況がどれほど厳しくても、私たちには自然の流れに任せるという道徳的また法律的責任があります。

    同じように、私たちは、レイプや近親相姦による妊娠だったからと言って、たった昨日生まれたばかりの子を殺すことはしません。一旦生まれたなら、ことさらに命を奪うことは考えられないことです。
    そ れならば、母の子宮にいるからといって、なぜ「標的」にされるのでしょう。確かに、法律は生まれていない子と生まれた子とに違った立場を認めますが、その 場合は法律が悪いのです。このような区別をするべき生物学的、また道徳的な理由はありません。私たちがまだ会っていない小さな犠牲者の死ぬ過程を見なくて すむ時にのみ、胎児の虐殺は受け入れられるべきかに見えるだけなのです。

    ですから、欠陥があったり障害を持つ子どもの命を断つべきだとい う議論のすべては、以上の理解に照らして検討されなければなりません。「どっちみち死ぬんだから。」「生かしておいても本人が苦しむだけだ。」「親が苦し むだけだ。」「真っ当な人生を送る見込みは、まずない。」「関係者みなにとって、これがベストの選択だ。」など様々な言い分がありますが、この世に生を受 けた赤ちゃんに適用しようとすると、こういう言い訳が間違っていることは明らかです。

    新生児にシアン化合物を与えるべき正当な理由はありません。しかし、その数時間前、妊婦の陣痛がまだ始まっていない時なら、その同じ欠陥のある胎児、または誤って妊娠に至った胎児をばらばらにしてもかまわないと考える人たちがいます。

    私 は、その主張は断固として誤りだと思います。こういう見解は、哲学的また神学的に述べることは易しくても、実際問題として直面させられる親にとっては別問 題だということは分かります。特に気にかかるのは、レイプによる子を妊娠している女性です。言語に絶するうめきと苦しみとがあるでしょう。
    しか し、そのような母親でも、もし無事出産し、自分で育てるか養子に出したならば、決してその決断を後悔することがないことを私は確信します。生まれていない 子どもにとって正しく道徳的なことは、両親にとっても結局はベストなのです。私の意見に反感を覚えるする人はいるでしょうが、これは私が信じていることで す。


    From ドクター ジェームス・ドブソンのQ&A

  • Q 心のこもった応答を全くしてくれない夫を持つ私のような妻はどうしたらいいのでしょうか。主人はいい人ですが、女ごころの機微にはうとくて、会話を楽しむことをしません。私はもう我慢できません。

    A.  妻の必要に全く答えられない種類の男性たちがいます。
    女性たちが何を考えているかが分からず、これまでに誰にも「与える」ことがなかったのです。

    女 性の機微が分からず、コミュニケーションできない、この種の男性たちと結婚した女性たちは、どこまでを期待できるのか、またどうやって意味ある生活を作り 出すかを決めなければなりません。そうでなければ、早く離婚するしかないでしょう。もちろん、前者の方が良いと私は思います。

    ご主人が上 記のような方ならば、奥さんにできることは、女性がどのように男性とは違うのか、そして、あなたの独特な必要は何かを、責めたり怒ったりせずに、よくご主 人に説明することです。お二人の間で、改善できるところは改善し、理解可能なことは説明し、解決できることは解決し、歩み寄れる部分は交渉をすることで す。
    ユニークな個性を持った、二人の不完全な人間が持ち寄った原材料で、できる限り最善の結婚生活を造りだすのです。

    また、削りとれない荒さや、直せない欠点などについて最善の努力をした後には、現実を受け入れることです。精神衛生の第一原則は、変えられないものを受け入れることです。人生の状況を見て、うつ状態に陥ることは容易です。

    し かし、それに屈せず、満足することを選ぶこともできます。「選択」がキーワードです。あなたは、ご主人をありのままに受け入れられますか。人が、伴侶の中 に自分の全ての願いや希望を実現することはほとんどないのです。コインの裏表のように、当然ながらあなたもご主人にとって完璧な奥様にはなれません。ご主 人があなたの情緒的な必要のすべてを満たすことができないように、あなたも、ご主人の男性としての必要を常に満たし続けることはできません。両者ともに、 人間の弱さ、欠点、いらいら、疲労、また時折おそう頭痛を現実として受け入れざるをえません。

    完璧主義は、良い結婚を生みだしません。解決不可能な山のような問題を見過ごせる健康な視点が、良い結婚を生み出すのです。この解決法が、実行するにやさしいものであるとか、おっしゃるような心の叫びを簡単に取り去るなどと申し上げるつもりはありません。

    しかし、誰でも遅かれ早かれ自分の手に余る困難にぶつかるものです。そこで、つぶれたり、逃げたり、腹を立てたり、その全てをすることもできます。けれども、受け入れることはそのすべてに勝るのではないでしょうか。


    ドクター ジェームス・ドブソンのQ&Aから