なぜパウロは天幕を作ったのか?Part 1

投稿者: Administrator on .

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テントメーカー新しいこと

教会は、世界宣教達成のために何千というクリスチャンプロフェッショナルのテントメーカーを必要としています。エンジニア、科学者、ビジネスマン、保健従事者、スポーツマン、農業 家、コンピュータ技術者、マスコミ関係者、教育者など、すべての部門において、21世紀において証しと仕事を融合させるテントメーカーが必要とされていま す。1世紀においてパウロがそうしたように。 しかし実際のところ、使徒パウロはどれぐらいテントメーキングをしながら働いたのでしょうか。そしてどれぐらいの献金を受け取っていたのでしょうか。いっ たい彼はどうしてその手で仕事をしたのでしょうか。彼の戦略は私たちの住む近代世界にも適応できるものなのでしょうか。これらの質問を調べる前に、私たち は現代のテントメーカーたちが何をしているのか、そしてどうしてそんなにもテントメーカーが必要とされているのかを考えましょう。私たちは、まず現代のテ ントメーキングの実際的な合理性を考えた後に、パウロの原則を学びましょう。

テントメーカーとは誰か?

テントメーカーとは、非宗教的な場所で働きながら自分自身をサポートし、その仕事において、また仕事外の時間に海外での宣教をする宣教を動機としたクリス チャンのことです。彼らの職業はさまざまで、企業家、専門を持ったサラリーマン、従業員、有給のボランティアワーカー、またクリスチャンの専門の留学生、 調査員、インターン、留学生などです。彼らは少しの給料または無償で教会で奉仕を願い出ることができます。他方で、普通の宣教師は、送り手から宣教団体や 教会を通して献金を受け取っています。彼らは、たとえ彼らが看護や教育など、技術を用いて仕事をしても、宗教人だとおもわれます。なぜなら彼らがクリス チャンの組織から援助を受けているからです。これらの双方のそれぞれすばらしい働きのモデルはもし彼らが互いにオープンで誠実でありさえすれば融合し、調 和するものです。いくらかの送り手の献金を受けて低い給料で働いているテントメーカーもいますし、サポートと未信者との交流のために学校や大学といった非 宗教的な場所でパートタイムで働いている宣教師もいます。宣教団体がその職員に組織的な信頼性を加えるための援助をするときもあります。神はクリスチャン を献金によって生活するかテントメーキングをするか状況によって変えるように召される場合もあります。

不幸なことに、海外で仕事をしているほ とんどのクリスチャンはテントメーカーではありません。彼らはその家庭においてほとんどもしくはまったくミニストリーを持たない人たちで、海外に行っても それは変わりません。彼らは同国人のいるインターナショナル教会に行くだけです。アメリカ人なら英語を話す会衆に加わるために。しかし少数の国外のクリス チャンは現地の市民そして受け入れ国での彼らの職場にいる外国人に伝道をしようと願っています。たぶん1パーセント以下の人がテントメーカーでしょう。

働きの仲間での間での主要な誤解の一つはテントメーカーの仕事をしていたら、ミニストリーをする時間もエネルギーもほとんど残っていないのでは、というもの です。クリスチャンの働き人はよく私に聞きます。「あなたはそんなに多くの時間を非宗教的な場所に使って、神のためにはほとんど時間が残っていないという ことで葛藤したことはないのですか?」しかし私は私のすべての時間は神に属していると信じて来ました!神は私をペルーのリマにある非宗教的なバイリンガル スクールに導いてくださり、そして次にブラジルのサオ・パウロにある学校へと導いてくださいました。主はそこで私にペルー人やブラジル人の先生、小学校の 生徒や、彼らの上級生や家族とわくわくするようなミニストリーを与えてくださいました。それに加えて、そこには学校の看護婦も、管理人も、バスの運転手さ んも、調理人もいました。このミニストリーの中心は私の職業でしたが、それらは私の私生活、つまり家に人を招いたり、家庭で聖書研究会を開くことにも広が りを見せました。

私は自由な時間には地域の教会で教えたり、訓練を導いたり、大学生会を始めました。大学での働きは30年の間私の主な働きで、IVCF-IFES学生運動をペルーとブラジルで、後にはポルトガルとスペインで開 拓をしました。そして多くの外国の国々で学生やスタッフの訓練をしました。後半の時期は私はフルタイムスタッフとして働き、送り手の献金を受けていまし た。なぜなら私は仕事と証しを融合させていたからです。

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良くある質問と答え

  • Q. 教会には、なぜ十字架があるの?

    A. ローマ時代、十字架刑というのは、もっとも恐 ろしい犯罪者への刑罰の方法でした。イエス・キリストは何の罪も犯されませんでしたが、約2000年前に 2人の強盗と一緒に十字架につけられました。それは、「私たちの罪の身代わり」であった、と聖書は語っています。十字架上でイエス・キリストが流された血 潮によって、私たちの罪はゆるされ、聖なる神の前で「義」とされるのです。
    そのことをいつも心に覚えて忘れないために、多くの教会には十字架がシンボルとして付けられていますが、十字架に手を合わせて拝んだりするためではありません。
  • 家族Q 博士の中絶に対する考えは極端だという人たちがいます。近親相姦やレイプや生まれてくる子が障害児である時でさえ、中絶は許されないと言われるからです。そういう立場を取られる理由は何ですか。

    A  文字どおり母親の命がかかっているという稀な場合にのみ、人間は発達過程にある胎児の命を奪う権威を持つと私は思います。

    その理由は、次の単純な質問に基づいています。「母親の子宮にいる赤ちゃんと、産道を30センチばかり下りた赤ちゃんとどんな基本的違いがあるのでしょう。」もしあるなら、それは何でしょう。人の誕生のどの時点で、神は子供を人間であると宣言されるのでしょう。

    赤ちゃんが母体から離れることには、単なる原形質から永遠の魂を持った人間への変化を説明する、何か特別神秘的なものがあるのでしょうか。私はないと思います。子宮内の赤ちゃんも、数分後にこの世に生まれる赤ちゃんも、確かに神様は同じ愛をもってご覧になるのです。
    両者の唯一の違いは、人の目に見えるか見えないかです。

    こ の前提を受け入れるなら、産前であれ産後であれ、子どもを殺すことは同じように人の道に反します。肉体上の問題、知的な障害、また妊娠の理由はこの際関係 がありません。思いがけない障害をもって生まれた子をその場で殺すようにとは、中絶賛成派の急先峰であっても言いません。
    実際に、人並みの知的能力を持たないであろう新生児や、数週間しか生きられないであろう新生児を殺したら、当局から殺人の責任を問われます。子どもの状況がどれほど厳しくても、私たちには自然の流れに任せるという道徳的また法律的責任があります。

    同じように、私たちは、レイプや近親相姦による妊娠だったからと言って、たった昨日生まれたばかりの子を殺すことはしません。一旦生まれたなら、ことさらに命を奪うことは考えられないことです。
    そ れならば、母の子宮にいるからといって、なぜ「標的」にされるのでしょう。確かに、法律は生まれていない子と生まれた子とに違った立場を認めますが、その 場合は法律が悪いのです。このような区別をするべき生物学的、また道徳的な理由はありません。私たちがまだ会っていない小さな犠牲者の死ぬ過程を見なくて すむ時にのみ、胎児の虐殺は受け入れられるべきかに見えるだけなのです。

    ですから、欠陥があったり障害を持つ子どもの命を断つべきだとい う議論のすべては、以上の理解に照らして検討されなければなりません。「どっちみち死ぬんだから。」「生かしておいても本人が苦しむだけだ。」「親が苦し むだけだ。」「真っ当な人生を送る見込みは、まずない。」「関係者みなにとって、これがベストの選択だ。」など様々な言い分がありますが、この世に生を受 けた赤ちゃんに適用しようとすると、こういう言い訳が間違っていることは明らかです。

    新生児にシアン化合物を与えるべき正当な理由はありません。しかし、その数時間前、妊婦の陣痛がまだ始まっていない時なら、その同じ欠陥のある胎児、または誤って妊娠に至った胎児をばらばらにしてもかまわないと考える人たちがいます。

    私 は、その主張は断固として誤りだと思います。こういう見解は、哲学的また神学的に述べることは易しくても、実際問題として直面させられる親にとっては別問 題だということは分かります。特に気にかかるのは、レイプによる子を妊娠している女性です。言語に絶するうめきと苦しみとがあるでしょう。
    しか し、そのような母親でも、もし無事出産し、自分で育てるか養子に出したならば、決してその決断を後悔することがないことを私は確信します。生まれていない 子どもにとって正しく道徳的なことは、両親にとっても結局はベストなのです。私の意見に反感を覚えるする人はいるでしょうが、これは私が信じていることで す。


    From ドクター ジェームス・ドブソンのQ&A

  • キリスト教は二千年の歴史の中で、いくつかの流れに枝分かれしてきました。それを「教派」と言います。プロテスタントは、16世紀の「宗教改革」におい て、当時のローマ・カトリック教会から分かれた流れです。プロテスタントの中にもさらにいろいろな教派があります。教派の違いは、礼拝の仕方、教会の運営 の仕方、信仰における強調点の違いですが、キリスト教会の信仰の根本的規範は聖書であり、それに基づく信仰を言い表した古代の「信条」です。そこにおいて は基本的に一致しているので、このごろは、カトリックとプロテスタントが共同で訳した「新共同訳聖書」が生まれるなど、協力関係も進みつつあります。
  • しつけQ. 私の友人の子どもたちのことですが、今まで見たこともないようなしつけの悪さで、そばにいられると話もできません。なんとかしつけの手助けをしたいのですが、どうしたら友人を傷つけずに良いアドバイスができるでしょうか。

    A.  誰かの行動や性格について傷や欠点を指摘するには、ヤマアラシが愛しあうようにすべきです。すなわち相手を傷つけないように、細心の注意を払うのです。 そうでないと、友人を失うことになります。まして、親としての間違いを指摘することは、さらに危険が伴います。全くの善意から、相手の子どものことを考え て注意したとしても、注意した方が反対にとばっちりを受けるのがおちです。
    ですから、いかに必要を感じたとしても、私は人様の子どもについて頼まれもしないアドバイスはしないようにしています。どうしても聞き心地のよくないことを相手に対して言わなければならないとしたら、まず彼女との友情を築くための時間をとる努力をすることを勧めます。
    注意深く信頼関係を築いたあとで初めて、あなたはやさしくアドバイスする権利を手にすることができます。このやり方に近道はありません。


    From ドクター ジェームス・ドブソンのQ&A