注目ニュース

ゴスペルハウスが提供している「今日もバイブルしましょう!」サイトのシステム全体のアクセス数が、10,000,000を超えました。

このサイトの目的は、毎日1章ずつ聖書をともに読むことをお勧めし、そこに互いに投稿しあうことを目指しています。

「今日もバイブルしましょう!」のサイトは、http://www.bible-today.com/ です。

教会についての質問と答え

キリストのからだとしての教会

投稿者: Administrator on . Posted in 教会について

星を無効星を無効星を無効星を無効星を無効
 
「キリストのからだとは、教会のことです」(コロサイ1:25) とありますように、教会はからだにたとえられます。では教会の姿を次の聖句を読んで考えてみましょう。

12:14 確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。12:15 たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。12:16 たとい、耳が、「私は目ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。12:17 もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。12:18 しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。12:19 もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。12:20 しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。12:21 そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うこともでき ません。12:22 それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。12:23 また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうに なりますが、12:24 かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。12:25 それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。12:26 もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。12:27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。(1コリント12:14-27)この聖句は人間のからだにたとえて教会の姿を言い 表しています。

つまり、教会員のひとりひとりが重要な器官の役目を果たしており、どんなに小さな役目であっても、教会には必要な役目なの です。世の中では、偉い人や重要なポストに就いている人を重視します。しかし、「それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなく てはならないものなのです」 と書かれてあるように、教会においては重要でないと思われる人こそ必要なのです。そして、キリストのからだは、キリストにあって、同じ考え方、同じ心の持 ち方、同じ態度を持っているのです。さらに、重要な事は「もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての 部分がともに喜ぶのです」と書かれているように、苦しみと喜びを分かち合う人々の集まりだという事です。これは、イエス自身によって次の様に教えられまし た。

13:34 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合い なさい。13:35 もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(ヨハネ 13:34-35)

イエスの愛が教会の人々の中に宿ります。 それゆえにクリスチャンはイエスが愛したように愛しなさいという命令を受けるのです。お互いに愛するとは、お互いに「深い同情心、慈愛、慈愛、謙遜、柔 和、寛容を身に着け、互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合い、主が赦してくださったように、赦しあう」ことです (コロサイ3:12-13)

スポンサーサイト:

良くある質問と答え

  • Q.祈っても祈ってもなかなか答えられません。次第に祈ることがおっくうになってしまいました。祈りは答えられるのでしょうか。答えられない祈りを繰り返して、どんな意味があるのでしょうか。(三十代男性、会社員)

    A.  古代から現代にいたるまで、人間は変わりなく何らかの力ある存在に自らの願い事、祈りをぶつけてきました。しかし、そのとおりにならず、事が悪いほうに 進むと、その人は呪われているとか、何かの祟りであるとよく考えられてきました。それはどなたに祈るのかを本当の意味で知らないからです。

    ◇ 祈りは聞かれるのか?

    祈りは科学的説明を越えた神との深くそして豊かな対話です。ところが現代人は科学的説明と矛盾する祈りの世界を軽視します。祈ってもその通りにならない苛 立ちの中で、祈りの大切さを見失い、この時代の傾向に染まっていくなら、それは実に悲しむべきことです。しかし、もしキリストを信じその名によって祈るの なら、必ずその祈りは聞かれます。聖書はそのことを約束しています(ヨハネ十四・十三)。ただし聞かれるということと、祈りの通りに成ることとを混同して はなりません。ニューヨーク大学にあるリハビリテーション研究所の壁にかかっている、ある一人の患者の詩の一部を紹介いたしましょう。

    大事を成そうとして
    力を与えてほしいと神に求めたのに、
    慎み深く、従順であるようにと 
    弱さを授かった。
    より偉大なことができるように 
    健康を求めたのに、
    よりよきことができるようにと
    病弱を与えられた。

    幸せになろうとして 富を求めたのに、
    賢明であるようにと 貧困を授かった。
    世の人々の賞賛を得ようとして 権力を求めたのに、
    神の前に跪くようにと 弱さを授かった。
    人生を享楽しようと あらゆるものを求めたのに、
    あらゆることを喜べるように 命を授かった。

    求めたものは 一つとして 与えられなかったが
    願いはすべて聞き届けられた。
    神の意にそわぬ者であるにもかかわらず、 
    心の中の言い表せない祈りは 
    すべてかなえられた
    私は あらゆる人の中で
    最も豊かに祝されたのだ。

    ◇ 様々な祈りの答え

    神は祈りをお聞きになるばかりではなく、必ずその祈りに答えられるのです。その答えは少なくとも五つあります。1)すぐその通り(叉は祈り以上)になる。 2)ノーという答え(自己中心的な、叉は不信仰な祈りに対して、ヤコブ4:3、1:5-6)。3)待ちなさいという答え(忍耐が必要なとき)。4)予期し ない別のことが答えとして返ってくる(祈りが真実であっても的がずれているとき)。5)しばしの沈黙(ヨブ記)。すべての場合において祈りは届いていま す。しかし答えは違います。あなたの場合、第一の答え以外でしょう。祈り続けていく時に必ず何らかの答えが与えられます。
    「天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に
    良いものを下さらないことがあろうか」(マタイ七・十一)。


    OMSウエストロサンゼルスホーリネス教会から
  • ??どうしたら神の御心は分かるのですか。天から声が聞こえて来るわけではありません。人間は、神の御心をただ推し測ることしかできないのですか。

    とても大切なご質問です。神の御心があやふやなら、神に従えません。ところが、ほとんどの方は神の御声をどうやって聞き分けたらいいか、明確には分っていません。それで、自分の気持ちや印象に頼るのですが、それは信頼できるものではなく、神の御心を知るには危険です。感情は、大変主観的です。自分の願いや出来事や、それに昨晩の睡眠時間にさえ影響されます。神の声を聞いたと早とちりした信者たちは、時に大失敗をしました。 


    ある大学生の話があります。彼は、とある夜中、ある女性と結婚すべきだという強い思いを持って目をさましました。それまでに1、2回デートをしただけの人ですが、神が「この女性だ!」と言われたように思い込んだのです。翌朝、彼は女性に電話して、自分の予感を告げました。この女性は、彼と同じようには感じなかったのですが、神には逆らえないと思いました。2人は間もなく結婚しましたが、うまくいかず、ずっと苦しみ続けています。 


    神の御心が分ったと思い込んだ人たちについての、似たような話はたくさんあります。悪魔は「光の天使」(第二コリント11章14節)として来ることを思い出してください。つまり、神の声の偽物をつくり出すという意味です。突然に受けた思いや予感を、人間が無批判かつ衝動的に受け取るようにしむけることで、悪魔は人間を混乱させ、幻滅させることができます。 


    感情や予感によって神の御心を判断するということに関して、私は南カリフォルニア大学の博士課程を終了して、博士号を授与された日のことを思い出します。教授たちに握手をしてもらい、祝福のことばをかけられ、それまでに熱心に求めてきたものをついに得てキャンパスを後にしました。その日、車で家に向かいながら、私はそれまでの人生における神の祝福を感謝し、これから御心のままに私を使ってくださいと祈りました。あの小さな、赤いフォルクスワーゲンの中で神と交わった時、主をとても近く感じました。 


    さて、とある角を曲がった時(今でもその場所を覚えています)、1年以内に誰か私の身近な人が死ぬ、という強い予感を私は持ちました。そのことが起きても、私は驚き惑うことなく、神を信じ頼り続けるようにと神がおっしゃっているように、私には思えました。 


    その突然の予感を説明できるような死とか何かを、全く予想してはいなかったので驚きました。いったい誰が死ぬのか、またどのようにその最後が来るのかなどと考えると、心臓がどきどきしました。それでも、家についた時そのことを誰にも話しませんでした。 


    1ヵ月たちましたが、どんな悲劇も、死別もありませんでした。さらに2、3ヶ月がたちまちのうちに過ぎましたが、私の家族の誰も死にませんでした。ついに、嫌な予感がしたあの日から1年過ぎましたが、何事もありませんでした。父が亡くなるまで、10年の月日が流れました。しかしそれは、フォルクスワーゲンの中の予感とは何の関係もなかったと思います。 


    それ以来、多くの方々をカウンセリングし、またその他の職業上の経験を通して、私のようなあやまった思い込みを持つ人が決して少なくないことを知りました。同じような経験が、特にそのような考えに影響されやすい直感的な方々にはよくあるようです。 


    例えば、30歳になるお母さんが、不安とうつ症状がとれないという訴えを持って私の所に来られました。お話を聞いていると、16歳の時に通っていた教会の礼拝で経験したエピソードを話されました。説教の終わる頃、彼女は、神からの驚くようなメッセージを「聞いた」というのです。「ジーニー、他の人がわたしのことを知ることができるために、あなたは死ぬ」という声です。 


    彼女は、震え上がりました。自分が絞首刑台の上に立たされ、死刑執行の縄が自分の頭の上にぶら下がっているかのように感じました。彼女はパニックに陥り、席から飛び上がり、ドアをいくつも通り抜けて教会を後にしました。すすり泣きながら走りました。人に話したら罪を犯すような気がして、誰にも言えませんでした。何年もの間、神の判決の執行がいつなされるのかと、息をひそめるように生活していました。しかし、それから10何年もたつのに、彼女は今も健康そのもののようです。

    このような例をはじめ様々な実例から、私は、自分の受けた予感を勝手に解釈するのは賢いことではないと考えるに至りました。

  • Q. どうしてクリスチャンは、日曜日に礼拝をするの?

    A. 日曜日に行くだけではなく、 しばしば週日にも教会に行きます。礼拝は通常日曜日が中心ですので(時間はまちまちですが)神を生活の第一として礼拝し、聖書のメッセージを聞き、そのみ ことばから励ましや希望、力をいただくのです。教会によっては、日曜日以外の曜日にも礼拝が持たれています。また、聖書の学びや賛美集会、祈り会などの集 会も開かれていますので、お近くの教会にお尋ねください。
  • Q. 聖霊とは何ですか。

    A. 父なる神(万物の造り主)と子なる神イエス・キリスト(わたしたちの救い主)とともにあがめられ、今も見えない形で共にいて下さる神さまです。聖霊は全て のものの内に働き、また聖書の御言葉の活きた語り手として、信じる者に信仰、希望、愛をもたらしてくださいます。 聖書で「霊」という場合、心霊写真の「霊」とは違います。霊は神であり、命だからです。