中絶は自由?

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中絶は自由?

Q 博士の中絶に対する考えは極端だという人たちがいます。近親相姦やレイプや生まれてくる子が障害児である時でさえ、中絶は許されないと言われるからです。そういう立場を取られる理由は何ですか。

A  文字どおり母親の命がかかっているという稀な場合にのみ、人間は発達過程にある胎児の命を奪う権威を持つと私は思います。

その理由は、次の単純な質問に基づいています。「母親の子宮にいる赤ちゃんと、産道を30センチばかり下りた赤ちゃんとどんな基本的違いがあるのでしょう。」もしあるなら、それは何でしょう。人の誕生のどの時点で、神は子供を人間であると宣言されるのでしょう。

赤ちゃんが母体から離れることには、単なる原形質から永遠の魂を持った人間への変化を説明する、何か特別神秘的なものがあるのでしょうか。私はないと思います。子宮内の赤ちゃんも、数分後にこの世に生まれる赤ちゃんも、確かに神様は同じ愛をもってご覧になるのです。
両者の唯一の違いは、人の目に見えるか見えないかです。

こ の前提を受け入れるなら、産前であれ産後であれ、子どもを殺すことは同じように人の道に反します。肉体上の問題、知的な障害、また妊娠の理由はこの際関係 がありません。思いがけない障害をもって生まれた子をその場で殺すようにとは、中絶賛成派の急先峰であっても言いません。
実際に、人並みの知的能力を持たないであろう新生児や、数週間しか生きられないであろう新生児を殺したら、当局から殺人の責任を問われます。子どもの状況がどれほど厳しくても、私たちには自然の流れに任せるという道徳的また法律的責任があります。

同じように、私たちは、レイプや近親相姦による妊娠だったからと言って、たった昨日生まれたばかりの子を殺すことはしません。一旦生まれたなら、ことさらに命を奪うことは考えられないことです。
そ れならば、母の子宮にいるからといって、なぜ「標的」にされるのでしょう。確かに、法律は生まれていない子と生まれた子とに違った立場を認めますが、その 場合は法律が悪いのです。このような区別をするべき生物学的、また道徳的な理由はありません。私たちがまだ会っていない小さな犠牲者の死ぬ過程を見なくて すむ時にのみ、胎児の虐殺は受け入れられるべきかに見えるだけなのです。

ですから、欠陥があったり障害を持つ子どもの命を断つべきだとい う議論のすべては、以上の理解に照らして検討されなければなりません。「どっちみち死ぬんだから。」「生かしておいても本人が苦しむだけだ。」「親が苦し むだけだ。」「真っ当な人生を送る見込みは、まずない。」「関係者みなにとって、これがベストの選択だ。」など様々な言い分がありますが、この世に生を受 けた赤ちゃんに適用しようとすると、こういう言い訳が間違っていることは明らかです。

新生児にシアン化合物を与えるべき正当な理由はありません。しかし、その数時間前、妊婦の陣痛がまだ始まっていない時なら、その同じ欠陥のある胎児、または誤って妊娠に至った胎児をばらばらにしてもかまわないと考える人たちがいます。


私 は、その主張は断固として誤りだと思います。こういう見解は、哲学的また神学的に述べることは易しくても、実際問題として直面させられる親にとっては別問 題だということは分かります。特に気にかかるのは、レイプによる子を妊娠している女性です。言語に絶するうめきと苦しみとがあるでしょう。
しか し、そのような母親でも、もし無事出産し、自分で育てるか養子に出したならば、決してその決断を後悔することがないことを私は確信します。生まれていない 子どもにとって正しく道徳的なことは、両親にとっても結局はベストなのです。私の意見に反感を覚えるする人はいるでしょうが、これは私が信じていることで す。


From ドクター ジェームス・ドブソンのQ&A

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良くある質問と答え

  • Q. 聖書ってどんな本?

    A. 聖書とは、旧約聖書39巻と新約聖書27巻、計66巻が一 つにまとめられた本です。「聖書(Bible)」という言葉は、ギリシャ語の「ビブロス(本)」から来ています。約1600年の間 (B.C.1500~A.D.100)に、40人以上の人々(王様、学者、農夫、漁師、医者など)が、神に導かれて記した不思議な書物です。
    聖書の中には、神から人間に対するみこころが文書のかたちで啓示されています。天地創造からイスラエル民族の歴史、初代キリスト教の歩みや、この世界の未来に対する預言などが書かれています。その中心的主題は「イエス・キリストによる救い」です。
    毎年世界で一番多く印刷され、世界でもっとも多くの言語に翻訳され、世界中の国々で読まれているのが聖書です。
  • Q 妻は、全てが整った状況でないとセックスに応じません。我々夫婦は、単純に互いの体を楽しみあうことができないのです。ベッドに入る前から、時間をかけて妻に話しかけなければ、興味を示さないのです。他の女性たちもそうなのでしょうか。

    A 大部分の女性はそうです。女性にとって、セックスとは単に肉体だけの経験ではありません。ロマンチックな要素が不可欠です。妻が、夫に対してある親密さを その時に感じなければ、また夫から人間として尊敬されていると感じなければ、夫とのセックスを楽しむことはできないかもしれません。ロマンチックな親密さ を感じずに性行為をする時、妻はしばしば「使われた」と感じます。そして、奥さんのように夫を拒否するか、もしくはうらみつつ、しぶしぶ夫に応じるので す。ある意味で、そうした時、夫は自分を喜ばせるために彼女の体を利用したのです。
    逆に男は、不機嫌で帰宅し、自室やガレージで黙々と働き、11 時のニュースを黙って見、最後にベッドにもぐり込んで、妻を求めることもできるのです。その晩、妻と優しく語り合う時間がなかったからといって、彼の性欲 が著しくそがれるということはありません。妻が、肌にまとわりつくようなナイトガウンを着てベッドに向かうのを見ただけで、夫はもう熱が入ってしまうので す。
    しかし、妻の方はそう簡単にはいきません。一日中待っていたのに、夫が帰宅しても挨拶さえまともにしてくれなかったので、彼女は無視されたと 感じ傷つきました。それ以後も何かに没頭して、こちらを向いてくれないのですっかり興が冷めたのです。ですから、夜遅くなって夫の要求に答えることはでき ないと感じるのです。


    ドクター ジェームス・ドブソンのQ&Aから

  • Q. 献金とはどういうものですか。会費とどう違いますか。

    A.  礼拝に参集した者は神への感謝の応答として献金します。 よく「収入の10分の1が基準」と言われますが、献金は信仰に基づく自由な応答によるものであって、会費のように額を定められるものでも、まして何かの強制によるものでもありません。
    教会は経済的基盤を殆ど献金に負っています。当教会の規則では献金は教会員(洗礼を受け、教会のメンバーになった人)は自己申告によって決まった額の「月 定献金」を捧げ、教会を支えることになっています。他に礼拝の席上で捧げる「礼拝献金」、イースターやクリスマスなどの「特別献金」、またそれぞれの自由 意志によってささげる「感謝献金」があります。
  • Q. 聖書で言う罪は、何ですか?

    A. 創造者である真の神に背を向けて、自分中心に人生を生きることです。
    聖書の中に「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。(箴言 第14章12節)」と書かれています。創り主から離れた生き方が不信仰や不従順であり、そこから人間は多くの罪を犯すようになったのです。
    ギ リシャ語で「罪」を表す言葉に「ハマルティア」というのがありますが、それは「的を外す」「誤る」「迷う」ということを意味しています。聖書の語っている 罪の根本は、真の神を無視する人生を指しています。聖書はそのような人間の姿を「羊のようにさまよい」と表現しています。
    神の御子イエス・キリストがこの地上に来られたのは、十字架で私たちのために罪の身代わりとなることにより、神との和解と、新しい神との交わりの道をイエス・キリストを信じるすべての者に与えるためでした。罪は、目に見えなくても、人生を縛り、呪いをもたらすものです。