安楽死の方向?

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家族Q 安楽死の方向への動きに異論があるのはなぜでしょう。病気の老人が尊厳をもった死を選ぼうとすることは、誰の迷惑にもならないはずです。質の伴った命がないわけですから、静かに自殺させてあげたらどうかと思うのですが。

A  現代の文化的背景の中で、ご質問は大変重要なものですので、しばらく時間を割いてお答えしたいと思います。

苦しく緩慢な死を迎える老人たちがいることを知っている私たちにとって、ご質問にあるような考えは大変魅力的なものではあります。静かに眠らせ、苦しみを逃れさせてあげる方が確かに人間的なことと思えます。

し かし、その方向に進むなら、多くの人々が言語に絶する苦しみを味わい、社会が混乱に陥ることは火を見るよりも明らかです。人命を奪うという道徳的な側面も さることながら、安楽死はその性格上、なしくずしになることが避けられません。いったん、おりから這いだした蛇を捕まえることはできません。

詳しく説明しましょう。治癒の見込みのない老人が、医師の助けによって自殺することが合法化されたとします。その後は、病気も重度の障害もない人の自殺に対して、何が歯止めになるのでしょうか。
健康な老人であっても、もう生きるのに疲れたという人はどうでしょう。彼の自殺を許すのにかかりつけの医師からの許可証が本当に必要でしょうか。
健康な老人が死を選べるとしたら、次にはそれほど高齢でない人の場合はどうでしょう。
五十代の人は身投げをしてよいでしょうか。よくないとしたらその理由はなんでしょう。
四十代の更年期の女性や、中年の多くのストレスを抱えた男性はどうでしょう。

少し考えて見ると、自殺という決定的な事柄に年齢は何の関係もないことが分かります。うつ状態ではあっても健康な二十歳の学生が、治癒の見込みのない患者と同じように「尊厳ある死」を選ぶ権利があるということになってしまいます。

もし安楽死が一部の人に合法化されたら、全面的合法化へのレールが敷かれたも同然です。年齢も、健康的要素も、クォリティ・オブ・ライフ(質の伴ったいのち)も条件とはなりえません。
安楽死を積極的に押し進めているヘムロック協会という団体は、その事実をよく知っています。彼らは、全ての人には「死ぬ権利」があると強く主張しています。

私 たちが今、まったく健全な胎児を切り刻んでごみ袋に捨てているなどと、1950年に誰が予想したでしょうか。四千万近い、いたいけな子供たちを母の胎から 引き裂くなどということを、誰が想像できたでしょう。最も弱い者たちにその様な非道を行った私たちが、どのようなグループの人たちをも殺すことができない と信じることができるでしょうか。

歴史的に言って、安楽死という怪獣を招き入れてしまった国々は、大量虐殺という悪夢を実現してしまった のです。それこそ、ナチス・ドイツに起こったことです。そこではまず始めに病人と老人とを殺し、次に精神障害者、知的障害者、そして生まれつきの障害児を 殺害したのです。そこから「望ましくない者たち」すなわちユダヤ人、ポーランド人、ジプシー、生産活動に従事できない者、政治犯、同性愛者その他の人々を 殺害するまではほんの一歩でした。安楽死は絶滅収容所への最後の小さなステップでした。
もしこのような狂気の虐殺が起こらなくても、「死ぬ権利」の合法化は毎年の自殺数を劇的に増すことは確実です。

一 人一人の死は、残された者たちにとって、計り知れない悲嘆と罪責感と悲しみとを残します。死ぬ人にとって、自殺は安易な逃げ道に見えるかもしれませんが、 愛する者や多くの子供たちを含む親戚にとっては恐らく最も苦痛に満ちた経験です。どの観点から見ても引き出せる結論は同じです。しかし、カリフォルニア州 の第九連邦巡回控訴院は、家族計画協会対ケーシーの連邦最高裁の判決を引用しながら、安楽死を米国で合法化したのです。「神よ、われらを助けたまえ。」


From ドクター ジェームス・ドブソンのQ&A

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良くある質問と答え

  • Q. イエス・キリストとはどのような方ですか。どうすれば知ることができますか。

    A.  イエスは真実に人間となった神の子、そしてわたしたちの主キリストです。 それは聖書全巻を通して、神さまからわたしたちに証言されています。この方を知るには、信仰という神さまからの恵みに依らなければなりません。神さまは聖書を用いて、礼拝において、言葉を語り、わたしたちはこの方を知るのです。 人間の能力では決して知ることが出来ない人類最大の秘義です。
  • 教会の礼拝は誰にでも開かれています。誰でも、どんな人でも出席してよいのです。ですから、悩みがある人、元気になりたい人はどうぞいらして下さい。そう でなくても、教会って何をしているのかな、聖書の教えってどんなことかな、と少しでも興味のある人はどうぞいらして下さい。礼拝に行ったらもうクリスチャ ンにならなければならない、などということはありません。教会は、ちょっとのぞいてみよう、という方も歓迎します。礼拝の秩序さえ重んじていただれば、ど のような思いで参加して下さってもよいのです。
  • Q.祈っても祈ってもなかなか答えられません。次第に祈ることがおっくうになってしまいました。祈りは答えられるのでしょうか。答えられない祈りを繰り返して、どんな意味があるのでしょうか。(三十代男性、会社員)

    A.  古代から現代にいたるまで、人間は変わりなく何らかの力ある存在に自らの願い事、祈りをぶつけてきました。しかし、そのとおりにならず、事が悪いほうに 進むと、その人は呪われているとか、何かの祟りであるとよく考えられてきました。それはどなたに祈るのかを本当の意味で知らないからです。

    ◇ 祈りは聞かれるのか?

    祈りは科学的説明を越えた神との深くそして豊かな対話です。ところが現代人は科学的説明と矛盾する祈りの世界を軽視します。祈ってもその通りにならない苛 立ちの中で、祈りの大切さを見失い、この時代の傾向に染まっていくなら、それは実に悲しむべきことです。しかし、もしキリストを信じその名によって祈るの なら、必ずその祈りは聞かれます。聖書はそのことを約束しています(ヨハネ十四・十三)。ただし聞かれるということと、祈りの通りに成ることとを混同して はなりません。ニューヨーク大学にあるリハビリテーション研究所の壁にかかっている、ある一人の患者の詩の一部を紹介いたしましょう。

    大事を成そうとして
    力を与えてほしいと神に求めたのに、
    慎み深く、従順であるようにと 
    弱さを授かった。
    より偉大なことができるように 
    健康を求めたのに、
    よりよきことができるようにと
    病弱を与えられた。

    幸せになろうとして 富を求めたのに、
    賢明であるようにと 貧困を授かった。
    世の人々の賞賛を得ようとして 権力を求めたのに、
    神の前に跪くようにと 弱さを授かった。
    人生を享楽しようと あらゆるものを求めたのに、
    あらゆることを喜べるように 命を授かった。

    求めたものは 一つとして 与えられなかったが
    願いはすべて聞き届けられた。
    神の意にそわぬ者であるにもかかわらず、 
    心の中の言い表せない祈りは 
    すべてかなえられた
    私は あらゆる人の中で
    最も豊かに祝されたのだ。

    ◇ 様々な祈りの答え

    神は祈りをお聞きになるばかりではなく、必ずその祈りに答えられるのです。その答えは少なくとも五つあります。1)すぐその通り(叉は祈り以上)になる。 2)ノーという答え(自己中心的な、叉は不信仰な祈りに対して、ヤコブ4:3、1:5-6)。3)待ちなさいという答え(忍耐が必要なとき)。4)予期し ない別のことが答えとして返ってくる(祈りが真実であっても的がずれているとき)。5)しばしの沈黙(ヨブ記)。すべての場合において祈りは届いていま す。しかし答えは違います。あなたの場合、第一の答え以外でしょう。祈り続けていく時に必ず何らかの答えが与えられます。
    「天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に
    良いものを下さらないことがあろうか」(マタイ七・十一)。


    OMSウエストロサンゼルスホーリネス教会から
  • Q. 聖書で言う罪は、何ですか?

    A. 創造者である真の神に背を向けて、自分中心に人生を生きることです。
    聖書の中に「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。(箴言 第14章12節)」と書かれています。創り主から離れた生き方が不信仰や不従順であり、そこから人間は多くの罪を犯すようになったのです。
    ギ リシャ語で「罪」を表す言葉に「ハマルティア」というのがありますが、それは「的を外す」「誤る」「迷う」ということを意味しています。聖書の語っている 罪の根本は、真の神を無視する人生を指しています。聖書はそのような人間の姿を「羊のようにさまよい」と表現しています。
    神の御子イエス・キリストがこの地上に来られたのは、十字架で私たちのために罪の身代わりとなることにより、神との和解と、新しい神との交わりの道をイエス・キリストを信じるすべての者に与えるためでした。罪は、目に見えなくても、人生を縛り、呪いをもたらすものです。