自信がな子どもたちが増えてきたのはなぜなのでしょうか。

投稿者: Administrator on . Posted in 子育ってについて

星を無効星を無効星を無効星を無効星を無効
 

子育てQ. 自信がなく、自尊心が低い子どもたちや若者たちがこれ程までに増えてきたのはなぜなのでしょうか。

A. ひとつには、私たちの社会が持っている、人間の価値をはかる尺度が狂っているからです。全ての人が価値ある存在とはみなされません。全ての人がありのま まに受け入れられていません。生まれながらにして誰からも認められるような資質を持った人にしか賞賛は届きません。

この悪循環を私たち親はなんとかすべきです。私たちの文化で最も高く評価されているのは美しさです。たまたま美しく生まれついた人は誉れと尊敬を受けます。
そうでない人は他に落度はないのにさげすまれ、拒まれます。乳幼児でさえこの価値基準にさらされます。美しい子はより可愛がられるのです。

そ れで、第一子を産んだ後に母親がふさぎ込むのは珍しくはありません。赤ちゃんは一般的には不器量なものとわかってはいても、自分の子どもは例外だと親は思 います。どんな母親も、まぶしい笑顔、かわいいまばたき、前歯が4本そろって、血色がよい、広告に出てくるような子どもを産みたいと内心は思っているので す。
ところが、わが子は期待はずれで、歯も髪の毛もなく、しわくちゃで泣き叫ぶだけです。成長するにつれ、親のみならず他人からも子どもは人としての価値をはかられるようになります。

赤ちゃんコンテストの優勝者には賞金や賞品が当り前のように与えられます。魅力的な子どもは、何もなくてもすでに有利であるのに、なんという不公平な世の中でしょう。
ジョージ・オーウェルの皮肉が思い浮かびます。「人はみな平等であるが、ある人たちはより平等なのだ」この言葉の真実性が私たちの子どもたちの人生において証明されているのは実に悲しいことです。


ドクター ジェームス・ドブソンのQ&Aから

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良くある質問と答え

  • Q 女性が、妻(母)となることを人生の目標とすることはおかしなことですか。何か他に目標がなくてはいけませんか。

    A  全くおかしくありません。母親としての仕事は立派な仕事であり、何も恥じる必要はありません。若い女性たちが主婦となることを目指すと言っただけで、愚か者扱いされるようになったのは、ほんのここ数十年のことです。

    ある大学4年の女子生徒が卒業後のことについて相談に来たことを思い出します。様々な仕事の可能性や更に学びを続けることについても話し合いました。
    それから彼女はひと呼吸おいて、後ろをうかがってから身を乗り出し、ほとんど聞き取れない程の声で言いました。

    「本当のことを言ってもいいですか。」
    「もちろん。他に誰も聞いてはいませんよ。」
    彼女は低い声で続けました。「本当はね、仕事なんか持ちたくないの。結婚して子どもを育てるのが私の望みなの。」
    私は答えました。「何か秘密のように話さなくちゃならないことかい。君の人生じゃないか。誰に遠慮することもないよ。」
    「冗談言わないで下さい。この学校の教授や友達に聞かれたら、うわさの種にされてここにいられなくなってしまうわ。」

    信 じがたいことですが、今や子どもを産んでから数年を育児に専念することが当り前ではない時代になってしまいました。この風潮は、女性蔑視であり愚かなこと です。神を愛し、この世に貢献し役立つ子どもを育てることほど大切な仕事がこの世にあるでしょうか。何世紀もの間大切な働きとされてきた家事や育児を女性 たちが恥じるようになったことは残念至極です。

    もちろん、すべての女性が妻や母になるわけではありません。仕事にのみ生きる女性もいるで しょう。結婚するつもりのない人もいます。それはそれでいいのです。しかし、専業の母親となることを望む人がそれを公言することを(それも大学の構内で) 恥じる必要などどこにもありません。


    From ドクター ジェームス・ドブソンのQ&A

  • Q. クリスチャンになったらお酒やタバコは、やめなくてはいけない?

    A. クリスチャンになることは、「キリストへの信仰によって、罪のゆるしと永遠のいのちを受ける」という人間にとっての根本的な問題ですが、お酒やたばこ、パチンコなどは、その人の生活倫理や道徳の問題です。
    根 本的な生き方に、キリストによる新しい価値観と力を得るならば、その人の倫理や道徳も変えられていくことは事実ですが、お酒やたばこを止めることがクリス チャンになる条件ではありません。また、教会に行き始めたとたんに、すぐにそれらが無くなるわけでもないでしょう。それは、あなたがクリスチャンになった 後で、「心から止めたくなるかどうか」にかかっていることです。
    神は、あなたが願いを持つならば、不思議な力を与えてくださる方です。
  • 日曜日は、イエス・キリストの復活を記念する日です。その日に教会は礼拝を行ってきました。そのキリスト教が社会の中心となっていったことによって、紀元 4世紀に、ローマ帝国で、日曜日を休日とすることが定められたのです。日曜日が休日だから礼拝をしているのではありません。教会がキリストの復活を記念し て日曜日に礼拝をしていたから、日曜日は休日になったのです。
  • ??どうしたら神の御心は分かるのですか。天から声が聞こえて来るわけではありません。人間は、神の御心をただ推し測ることしかできないのですか。

    とても大切なご質問です。神の御心があやふやなら、神に従えません。ところが、ほとんどの方は神の御声をどうやって聞き分けたらいいか、明確には分っていません。それで、自分の気持ちや印象に頼るのですが、それは信頼できるものではなく、神の御心を知るには危険です。感情は、大変主観的です。自分の願いや出来事や、それに昨晩の睡眠時間にさえ影響されます。神の声を聞いたと早とちりした信者たちは、時に大失敗をしました。 


    ある大学生の話があります。彼は、とある夜中、ある女性と結婚すべきだという強い思いを持って目をさましました。それまでに1、2回デートをしただけの人ですが、神が「この女性だ!」と言われたように思い込んだのです。翌朝、彼は女性に電話して、自分の予感を告げました。この女性は、彼と同じようには感じなかったのですが、神には逆らえないと思いました。2人は間もなく結婚しましたが、うまくいかず、ずっと苦しみ続けています。 


    神の御心が分ったと思い込んだ人たちについての、似たような話はたくさんあります。悪魔は「光の天使」(第二コリント11章14節)として来ることを思い出してください。つまり、神の声の偽物をつくり出すという意味です。突然に受けた思いや予感を、人間が無批判かつ衝動的に受け取るようにしむけることで、悪魔は人間を混乱させ、幻滅させることができます。 


    感情や予感によって神の御心を判断するということに関して、私は南カリフォルニア大学の博士課程を終了して、博士号を授与された日のことを思い出します。教授たちに握手をしてもらい、祝福のことばをかけられ、それまでに熱心に求めてきたものをついに得てキャンパスを後にしました。その日、車で家に向かいながら、私はそれまでの人生における神の祝福を感謝し、これから御心のままに私を使ってくださいと祈りました。あの小さな、赤いフォルクスワーゲンの中で神と交わった時、主をとても近く感じました。 


    さて、とある角を曲がった時(今でもその場所を覚えています)、1年以内に誰か私の身近な人が死ぬ、という強い予感を私は持ちました。そのことが起きても、私は驚き惑うことなく、神を信じ頼り続けるようにと神がおっしゃっているように、私には思えました。 


    その突然の予感を説明できるような死とか何かを、全く予想してはいなかったので驚きました。いったい誰が死ぬのか、またどのようにその最後が来るのかなどと考えると、心臓がどきどきしました。それでも、家についた時そのことを誰にも話しませんでした。 


    1ヵ月たちましたが、どんな悲劇も、死別もありませんでした。さらに2、3ヶ月がたちまちのうちに過ぎましたが、私の家族の誰も死にませんでした。ついに、嫌な予感がしたあの日から1年過ぎましたが、何事もありませんでした。父が亡くなるまで、10年の月日が流れました。しかしそれは、フォルクスワーゲンの中の予感とは何の関係もなかったと思います。 


    それ以来、多くの方々をカウンセリングし、またその他の職業上の経験を通して、私のようなあやまった思い込みを持つ人が決して少なくないことを知りました。同じような経験が、特にそのような考えに影響されやすい直感的な方々にはよくあるようです。 


    例えば、30歳になるお母さんが、不安とうつ症状がとれないという訴えを持って私の所に来られました。お話を聞いていると、16歳の時に通っていた教会の礼拝で経験したエピソードを話されました。説教の終わる頃、彼女は、神からの驚くようなメッセージを「聞いた」というのです。「ジーニー、他の人がわたしのことを知ることができるために、あなたは死ぬ」という声です。 


    彼女は、震え上がりました。自分が絞首刑台の上に立たされ、死刑執行の縄が自分の頭の上にぶら下がっているかのように感じました。彼女はパニックに陥り、席から飛び上がり、ドアをいくつも通り抜けて教会を後にしました。すすり泣きながら走りました。人に話したら罪を犯すような気がして、誰にも言えませんでした。何年もの間、神の判決の執行がいつなされるのかと、息をひそめるように生活していました。しかし、それから10何年もたつのに、彼女は今も健康そのもののようです。

    このような例をはじめ様々な実例から、私は、自分の受けた予感を勝手に解釈するのは賢いことではないと考えるに至りました。