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ゴスペルハウスが提供している「今日もバイブルしましょう!」サイトのシステム全体のアクセス数が、8,000,000を超えました。

このサイトの目的は、毎日1章ずつ聖書をともに読むことをお勧めし、そこに互いに投稿しあうことを目指しています。

「今日もバイブルしましょう!」のサイトは、http://www.bible-today.com/ です。

第1回 ビジョン セミナー in 北海道

投稿者: Administrator on .

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第1回ビジョンセミナー


開催日:7月25日(金)~7月31日(木)

オプション:自分で決めた期間に継続的にステーすることができ、
ビジョンセミナーで学んだ事を自分のものにすることや神様との集中した時間を持つことができます。

ゴスペルハウスのロゴ

投稿者: Administrator on .

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ゴスペルハウスのロゴが作られました。サムエルがデザインをしてくれました。

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サムエルによると、このロゴの意味は、

「下の青い波線は、聖霊様の風を表しています。 また、良い知らせである福音が全世界の人々に風に乗って届くことを象徴してい ます。 そして家の中心にあるハートの形をした窓は、多くの人がここに来て、心の窓が キリストによって開かれることをイメージしました。」

これからのゴスペルハウスの働きに用いられることを期待しています。

ゴスペルハウス
アブラハム・リー

浦幌のすばらしい人々

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夢の村の皆様浦幌町に来て3年目になります。ここの町に導いてくださった神様に、まず、感謝を捧げたいと思います。ここに来て感じる大きなことの一つは、浦幌の町の人々の良さです。すぐに仲間に入れてもらいました。それは、この町に引越しする前に、「NPO日本のうらほろ」というものが立ち上がるところでした。

説明会が浦幌の中央公民館で行われ、私もそこに参加しました。そこで、町の有志たちが集まり、この町を全国に情報を発信することや町の良さを知らせる。そして、町の良い産物を発信することを目的に、町づくりの一環として立てられました。

それだけではなく、町の皆さんがこの町を愛し(もし、愛さなかったら、ここにはいません)、この町を立て上げる動きが見られます。このような流れの中で、良い友人・知人が増えました。

特に、「夢の村」というものもあり、私たちの看板や家の周りの整備などにも携えてくださいました。そのようなかかわりの中で、自分の障害もあったことから、雪が降りますと、雪かきが大変じゃないかと思い、お手伝いに来てくださるのです。これは、町の雪かきではなく、個人で私たちの広い駐車場を雪かきをしてくださっています。

時には、同じ時に、二人の方が見えたりします。これは、主の恵みであり、感謝なことです。

近所との関わりも、良くて、他の場所では味わえない、心の友のような人が沢山居ります。

感謝です。

アブラハム・リー@ゴスペルハウス

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良くある質問と答え

  • Q. 神はどんな方?どうやって知ることが出来る?

    A. ほんとうの神は、人間が木や石で作ったものではありません。人格を持たれる生きた方です。聖書は、まことの神は
    (1)天地万物の創造者
    (2)目に見えない霊なる存在者
    (3)罪を憎まれる聖い神
    (4)愛なる神
    であると語っています。この神が、罪人である私たちを罪から救い出し、永遠のいのちと豊かな人生を与えるために、イエス・キリストを十字架につけて私たちの救いの道をつくってくださったのです。
    誰でも、自分の罪を告白して悔い改め、イエス・キリストを救い主として信じるなら、この神のゆるしと限りない素晴らしい永遠の愛を受けとることが出来ます。
    神を知る道は、聖書のみことばと心からのキリストへの信仰です。神を知るための修行や訓練、功績は必要ありません。
  • 娘と父Q. 父親として私が、男性一般に対する娘の態度に影響を与えることはありますか。結婚したら、男性を理解し、どのように付き合っていくかを知る必要がでてきます。今からそういうことを考えておくことは大事でしょうか。

    A. そのとおりです。最初のボーイフレンドを見つける前、また初恋をするずっと前から、彼女の男性に対する態度は、父親によって静かに形作られているのです。
    な ぜでしょうか。それは、父と娘の関係は以後の全ての異性関係の基礎となるからです。父親に受け入れられなかった女性は、心の空白を埋めてくれる男性を求め 続けます。優しく暖かな父親の娘さんは父のような恋人を捜すでしょう。父が娘を美しく女性的だと思うと、彼女も自分をそう見るようになります。反対に父親 が「娘は魅力に乏しい」と思い無視すると、彼女は成人になってもセルフ・イメージの問題を引きずるようになるでしょう。
    また夫婦関係は、妻が自分の父親の権威をどう受け止めていたかに大変影響されます。娘が幼い時期に父親が威圧的できまぐれだと、娘は生涯に渡って自分の夫と主導権争いを続ける可能性があります。
    反対に父親が権威の大切さを教えるような形で愛のこもったしつけをしていると、娘は互いに尊敬しあうギブ・アンド・テイクの結婚生活により適応しやすくなるでしょう。
    花嫁の幸不幸の大部分は父親にかかっています。それで私ども父親は最大の努力を払って娘を育てるべきです。ですから父親が娘との関係に関心を持つことは大切です。


    From ドクター ジェームス・ドブソンのQ&A
  • 悔い改めてイエスの死と復活に預かるバプテスマを受けたものは、精霊を神の賜物として受けた、と上に書きました。 バプテスマは、言わば神と礼拝者が契約を交わす結婚式のようなものです。人はイエスを主と信じ、救い主として信じて、イエスの名によってバプテスマを受け るのです。 神がこれを認めてその人と契約を結ぶのです。その契約の証印が聖霊なのです(エペソ1:13)。 サルこれらのユダヤ人たちは、42節で述べられているように、 クリスチャンとして3つの重要なことを行なっていました。(1)使徒たちの教え(つまりイエスの教え)を忠実に守ることです。 教会の人々は、イエスに忠実に従う人々です。主の契約に預かる人は神の教えを学び、日々その教えに従って生きていきます。 (2)神に祈ることです。天地万物を創造した神がすべてを支配していることを信じ、その神の栄光が輝き、神の教えが教会内で実践され、またより多くの人々 が神を知るように祈るのです。 (3)パンを裂くとは、主の晩餐を受けることを指しています。主の晩餐はバプテスマと同様に非常に重要なので、しっかりと理解しておきましょう。 主の晩餐はイエスによって制定されました。 ぶどう

    22:14 さて時間になって、イエスは食卓に着かれ、使徒たちもイエスといっしょに席に着いた。22:15 イエスは言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。22:16 あなたがたに言いますが、過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません。」22:17 そしてイエスは、杯を取り、感謝をささげて後、言われた。「これを取って、互いに分けて飲みなさい。22:18 あなたがたに言いますが、今から、神の国が来る時までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」22:19 それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚え てこれを行ないなさい。」22:20 食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。(ルカの福音書22:14-20)

    イ エスの死を覚え、イエスの復活を覚える機会が、主の晩餐によって与えられています。クリスチャンは、主の晩餐のパンを受ける時、教会をイエスのからだ(こ の概念は次に説明します)として覚え、教会内での人間関係を吟味します。また、晩餐のぶどうの実のジュースを飲む時、 クリスチャンは神の救いの業と慈悲を思い起こし、神との契約を新たなる心を持って受けます。そして、主の晩餐は主イエス・キリストが復活された週の初めの 日(日曜日)に、主の復活を覚えてクリスチャンが受けられるものです。このように、教会とは罪ある者が悔い改め、イエスの名によるバプテスマをうけて神の 子供とされる人々の集まりです。そして、聖霊で満たされたクリスチャンたちが、神を唯一の神とあがめ、神の国民とされた人たちの集まりが教会です。そこに は神の御国、神の支配、神の権威があるのです。神の権威がなければ、教会自体に権威はありません。ですから、人間によって作られた伝統や規則などはない、 人々の集まりが教会なのです。もし規則、決まりがあるとすれば、神が制定したものだけです。
  • 「人間は皆罪人(つみびと)だ」と聖書は語ります。その罪とは、法律を犯す「犯罪」という意味ではないし、倫理的な「不道徳」ということでもありません。 聖書の言う罪は神様との関係においてのみ成り立つことです。神様に造られ、生かされている人間が、その神様を見上げることなく、神様の思いを無視して、自 分が主人となって歩んでいる、そのことが罪なのです。聖書における「罪」という言葉は「的外れ」という意味でもあります。神様を見失った人間は、的外れな 生き方をしてしまっているのです。その根本的な罪から、人間どうしの関係もうまくいかなくなり、「不道徳」も、そして「犯罪」と見なされる罪も生まれてく るのです。