クリスチャン信仰についての質問と答え

本当の幸せについて

投稿者: Administrator on . Posted in クリスチャンの信仰について

星を無効星を無効星を無効星を無効星を無効
 
Q. 家内安全や商売繁盛を願う宗教はご利益宗教なのであって、キリスト教はそういうものとは違う、と聞いたことがあります。それでは、自分の幸せを願うことはいけないことなのでしょうか。(四十代、主婦)

A.  家庭を持ち、大切な子供を育てる責任を持つ親として、健康や経済的安定を願うことは、自然なことであり、当然とも言えます。おそらく、自分の幸せを願わない人などいないとすら言えます。キリスト教はこれらを否定するのでしょうか。

◇ キリスト教はご利益宗教?

キリスト教は聖書のメッセージを土台としていますので、聖書が何といっているかが答えとなります。ところがその聖書は、一方では「自分の命を救おうと思う 者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう」(マタイ 十六・二十五)とあり、自己否定の道が示されております。しかし他方では「祈のとき、信じて求めるものは、みな与えられるであろう」(マタイ二十一・二十 二)ともあります。
これらのみ言葉は矛盾するように見えますが、どちらも最終的には幸せが与えられるという点で、重なるところがあります。聖書 はある意味で本当の幸せがどこにあるかを伝える書物です。ある敬虔な牧師は、「キリスト教は、究極的には真の意味でのご利益宗教だ」と言いましたが、わた しも同感です。しかし、一般的に考えられているご利益宗教とは、多くの点で異なります。

◇ ご利益信仰と人格的信仰

信 仰者の在り方という側面から比較してみましょう。いわゆるご利益宗教においては、世界の中心に自分がいます。自分にとっての利益を願い、良いと思えない 病、貧困、災害等を避けることを願います。ご利益があるならどの神でも構いません。しかし、聖書は自分を中心とした信仰の在り方そのものに疑問を投げか け、さらに警鐘を鳴らしています。ご利益信仰に潜むこの自己中心性そのものが、実は大きな不幸の第一歩なのです。
それに対して聖書で伝えられて いる信仰の在り方はよく「人格的信仰」と呼ばれます。それは自分ではなく神を中心としていくことであり、神との人格的信頼関係を人生の軸としていくことな のです。病気や貧困などから守られることも祈ると同時に、そういった苦難を神からの訓練として、受けとめることを学びます。神中心とは自分の利益のために 神を利用するという生き方との決別をいみしています。

◇ 真の幸せはどこに?

幸せを求めることは人間として自然なこと です。しかし、何が本当の幸せなのか、また人生から幸せを奪うものが何か知らないゆえ、多くの人は表面的には豊かになった社会のなかでもがいているので す。ヒルティーは「私は病気で幸福な人をたくさん見てきた。私は貧しくて幸福な人もたくさん見てきた。しかし心が罪で腐っていて幸福な人には会ったことが ない」と言いました。聖書は、罪こそ幸せを奪うものであると教えています。罪とは、神ではなく自分を中心として生きて行くその在り方(Being) を指し、罪の行ない (Doing) はその結果なのです。すなわち、罪を犯すから罪人なのではなく、罪人だから罪を犯すのです。ご利益信仰そのものの内に潜む罪こそ幸せを奪うものなのです。

何が幸せなのかは人間には分かりません。これが私の幸せだと思ってつかんだとしてもその瞬間に空しく消えていきます。真の幸せは追い求めて掴むものではなく、神の前に罪を悔い改めへり下る時、神がそっと与えて下さるものなのです。


OMSウエストロサンゼルスホーリネス教会のQ&Aから

スポンサーサイト:

良くある質問と答え

  • キリスト教は、イエス・キリストを神の子、救い主と信じ、キリストの父である神様を礼拝する宗教です。旧約聖書と新約聖書とからなる「聖書」を信仰の源泉 としています。 イエスをキリスト(その意味は救い主)と信じた弟子たちの群れが教会として歩みだし、約2千年の歴史を持っています。世界的に見れば、最も多くの信者のい る、世界最大の宗教です。
  • 一般に教会とは建物を指していることが多いようです。「教会に行ったことがある」「教会で結婚式を挙げる」と言う時、教会の建物を指して言っているようで す。 中世の教会では神の威光を表現するために、より高い教会堂、より大きな教会堂を建設しました。この長い歴史の中で、教会イコール教会堂(建物)というよう に変わっていったのです。元々、初期教会が存在した頃、教会堂のようなものはありませんでした。 クリスチャンは個人の家で集まっていたのです。 長い歴史の中で、本来の教会の性質も変わっていきました。 キリスト教の中には様々な宗派があり、各々の宗派がそれぞれの伝統を持っています。 そして、それぞれの教会が各々の伝統に基づいて違ったことを教えています。このような事は神が計画したことではありません。 教会はある宗教的なリーダーによって築かれた、という印象を持っている方もいると思いますが、本当の教会の姿は違います。 イエスは次の様に言われました。

    16:18 ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。16:19 わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天に おいても解かれています。 (マタイの福音書16:18-19)

    聖書が教えている教会とは、イエスが建てたものです。教会の起源は神 自身にあるのです。宗教的なリーダーが建てたものでも、ある特定の人間が建てたものではありません。では教会がどのように始まり、いったいどんなものなの かを共に考えてみ見ましょう。イエスが十字架に架けられ死んで3ヶ日後に復活され、その時にイエスは弟子たちに言いました。

    24:45 そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、24:46 こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり 24:47 その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。24:48 あなたがたは、これらのことの証人です。24:49 さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさ い。(ルカの福音書24:45-49)
  • Q. クリスチャンになったらお酒やタバコは、やめなくてはいけない?

    A. クリスチャンになることは、「キリストへの信仰によって、罪のゆるしと永遠のいのちを受ける」という人間にとっての根本的な問題ですが、お酒やたばこ、パチンコなどは、その人の生活倫理や道徳の問題です。
    根 本的な生き方に、キリストによる新しい価値観と力を得るならば、その人の倫理や道徳も変えられていくことは事実ですが、お酒やたばこを止めることがクリス チャンになる条件ではありません。また、教会に行き始めたとたんに、すぐにそれらが無くなるわけでもないでしょう。それは、あなたがクリスチャンになった 後で、「心から止めたくなるかどうか」にかかっていることです。
    神は、あなたが願いを持つならば、不思議な力を与えてくださる方です。
  • Q. イエスキリストは、どんな方ですか?

    A. イスラエルのベツレヘムという小さな田舎 町で、処女マリヤより降誕された救い主です。(西暦は、このイエス・キリストが生まれてから何年であるかを表しています。)この方は、人として生まれて来 られましたが、神の御子でした。人類すべての罪の身代わりとして、十字架にかかるために来られたのです。人はみな生きるために生まれてきますが、この方だ けは、死ぬために生まれて来られました。それは、彼の死によって、すべての人が罪のゆるしと永遠のいのちの救いに到るためだったのです。聖書全巻が預言し 啓示して来たのは、この方のことでした。